6年学級開きから一週間の声

現任校は、以前にも務めたことがある学校です。
5年生から6年生に持ち上がる際に、4学級から3学級に学級減となった子どもたちです。
一応、名前は伏せてアルファベット表記としてあります。
この中にデンバーの日本国総領事館職員になっている子もいて、なかなか頼もしく思います。
https://www.denver.us.emb-japan.go.jp/jp/culture/sakura100.html
また、私の印象が強いことで、教師を目指して本校で教育実習をした子どももおります。
年賀状のやりとりをしている子もいて、教師冥利に尽きると感じますね。
みんなそれぞれの人生をしっかり歩んでいるようで、何よりです。
以下は、その時の学級通信です。少々お恥ずかしいものですが、現在顧問を務めている道場の後輩たちへの刺激になれば幸いです。
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六年生を一週間送って・・ ☆
 このタイトルで短作文を書いてもらった。おもしろいものもある。まずはどうぞ
《A》うちのクラスの担任の先生の名前は、大谷先生です。大谷先生はとても親切な先生で、勉強をとても熱心に教えてくれます。特に算数をよくわかるように教えてくれます。
 先生は物を粗末にする人がきらいです。特に食べ物を投げると本気で怒ります。こわいけど良い先生です。先生の言うことを聞く、けんかをしない。勉強をがんばる。修学旅行で失敗しないようにがんばります。
《B》ぼくは、大谷先生はどんな先生なのかなあと思っていました。勉強をやってみたら、とてもわかりやすかった。大谷先生は怒るとこわいけど、普段の時はとてもやさしくておもしろいです。
 ぼくの卒業までの決意は、友達となかよくすることと、友達をたくさんつくることです。あと、勉強も算数がにがてだから、算数もがんばりたいと思います。
《C》ぼくが6年生になって、教室は6年2組になって、担任の先生が大谷先生だった。とてもやさしくて、とてもいい先生だ。それに教科書の問題がわかんないこともすらすらできる。
 そして、友達もできた。とてもうれしかった。
《D》6年2組になって、先生は大谷先生です。大谷先生は怒るとこわく、やさしいとこもあります。1年間よろしくおねがいします。
 6年になると卒業です。最後の学年なので、1年生の御世話はがんばってやります。6年生は修学旅行があります。6年には、最後の行事もあります。卒業式もがんばります。
┌──────────────────────────────────────┐
│ ここまでお読み頂いて、どんなことを設問として作文されたものか、想像が │
│ついたことかと思います。 │
│ ① 大谷への感想 │
│ ② 卒業までの決意 │
│というものです。(大谷) │
└──────────────────────────────────────┘
《E》ぼくは、最初あった時、こわい先生だなあと思って、ちょっと緊張したけど、初めて授業をした時、教え方もうまいしやさしい先生だったので、ちょっと安心しました。これからも先生と勉強をがんばろうと思います。
 ぼくは、最高学年になって2つのことをがんばろうと思う。まず、一つは、勉強のわからなかったことを家で必ず復習をするといことと、もう1つは、友達などにやさしくしようと思います。これからはやったことのないことを進んでチャレンジしようと思います。
《F》大谷先生に最初会った時は、こわそうな先生だったけど、やさしい先生でよかったと思います。勉強もうまく教えてくれてとてもいい先生だと思いました。これからもどうぞよろしく御願いします。
 ぼくは卒業までしっかり勉強をして、そして、1年後には立派な卒業生になるようにがんばろうと思います。卒業まで運動会や学習発表会などいろいろありますががんばりたいと思います。勉強もむずかしくなってきますが、がんばりたいと思います。ぼくは、1年後立派な卒業生になるためにがんばりたいと思います。
《G》ぼくは春休みやさしい先生がいいなあ~と思っていた。そして、学校にいった時、体育館で先生の発表の時、6年2組は大谷先生だった。こわそうだなあーと思った。4年生の時、1回授業をしに北ことがあるから、そのときこわいなあーと思ったから、大谷先生ときいた時、だからこわいな~と思った。(これは、星野先生の学級に授業をしにいった時のことでしょう。「ごんぎつね」の授業でちょっとおじゃましました。=大谷=)けど、最初の授業の時、全然こわくなかった。授業がおわったら、すぐ水のみや中休みをとってくれるからいい先生だなーと思った。
 ぼくは、5年生のころ、算数がむずかしかったので、6年生では、算数をがんばろうと思っている。そして、6年生で一番がんばろうと思っているのは水泳です。
《H》おもしろいとこもあるけど、こわいとこもある。前の先生よりノートの使い方がむずかしくなった。感想を書く時、時間が何分とか決まってて、その時間が早すぎて感想が書けなかったりするけど・・
 私は卒業までに勉強を集中してがんばる。1年生の世話や委員会もがんばりたい。(もうすでに、2組の飼育委員の人たちには、かなり働いてもらっています。ありがたいことです。そのせいで、金子くんが委員長に立候補して、見事に当選しました。=大谷)
《I》私ももう6年生です。もう、小学校生活も最後です。今、がんばろうと思っていること。5年生の時、がんばりきれなかったこと、合わせてがんばっていきたいと思っています。
 私は6年2組になりました。担任の先生は大谷先生です。いつもはやさしくて、おもしろい先生ですが、怒る時は怒る、というけじめのある先生です。
 私はとてもいい先生だと思います。
 次に、卒業へ向けての決意ですけど、最初に書いたこと。そして、やることはちゃんとやる!ということを、がんばろうと思っています。
《J》私は6年生になって、初めて男の先生にうけもってもらうことになりました。先生はちょっとこわいけど、勉強がてきぱき進ませる先生なんだか、やる気がでてきます。これが先生のいいところ。
 そして、6年生になっての決意、何事もあせらず、みんなと仲良くするのが、私の決意。
《K》6年生になって、もう4日たつけど、まだ6年生になったような気がしません。昨日、初めて大谷先生がおこったところをみて、びっくりしました。
 6年生では卒業までけんかをしないようにしたいと思います。
 これから1年間、よろしく御願いします。
《L》4月6日は新しいクラスの発表だった。私は6年2組になった。前の仲のよかった友達ともなれたし、あとは担任の先生だけ気になった。着任式で、担任の先生が大谷先生だった。1組も3組も5年生の時の先生で、みんなはうれしそうだったけど、私は、持ち上がりだった前の先生でもいいのにな・・」と思ってました。
 次の日、初めて1年生の御世話をすることになった。紙芝居をしてあげようと思って放送室に行ったら、かみしばいがなくて、自分たちで考えて、遊んであげました。2時間目、6年2組の初めての授業は、算数でした。今までの先生と教え方が全然違っても、分かりやすかったです。お母さんは、これから先生達のよさがわかってくるとと言ってました。(こういうさりげないバックアップは感謝申し上げます。とかく、「1年間辛抱しましょうね・・」とか、「ま、交通事故だと思ってあきらめましょう・・・」とか「あの先生は、どうしようもないねえ・・」なんて調子で学級崩壊を招いた例(というかこの場合は、招かれたというべきでしょう)を随分見聞していますからねえ。やっぱり、学校と家庭の連携というのは、昔からの形にもどるべきだと私なんぞは、思いますね。やたらと人権とは平等とかが言葉じりだけ先行している様子があって、それも誤解されたままで流布していることで、子どもも教師もゆがめられていることってのは、たくさんあります。=大谷=)
 もう6年生、学年で1番上なので、この1年間を大切にしたいと思います。
《M》最初に大谷先生と知ったのは、掲示板に大谷と書いてあって、
「ハ~」
とため息を立てました。でも、樋口先生がきて、
「あれ。」
と思いました。
 でも担当は大谷先生で、
「な~んだ。」
と思ったけど大谷先生は、楽しい先生ときき、
「イエ~イ」
と思ったけど、お母さんがわすれものに厳しいときいて、
「エ~」
と思ってしまったけど、いい先生でした。
 卒業するまで注意したいことは、先生の話をきいたり、国語の漢字もきれいに書きたいと思います。
┌──────────────────────────────────────┐
│と、まあ、こんな調子で続いています。 │
└──────────────────────────────────────┘
自己投資ができる人 ☆
 勉強というのは、鍛錬の一種です。特に頭脳の鍛錬が中心です。
 鍛えるというのは、適度の抵抗力(難しさ)と負荷の継続(続けること)によって効果が現れるのです。
 何のことかというと先週、社会科で出した宿題をやって来た人たちのことであります。自分で資料をあさって調べてきた人あり、お兄さんの歴史の教科書をみて調べてきた人ありといろいろですが、大切なことは、「言われたことをきちんとやってくる」という当たり前のことがしっかりできるということです。
 言われたこともきちんとできないで、これから自立する力をつけていこうという人がまともに力をつけられるとは到底考えられませんね。結局に自分につけを回すことになってしまいます。自己投資をできるというのは、自分自身を信頼している証でもあります。そのへんをよく考えてみてほしいと思います。

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社会性や対人関係能力の何が問われるか

これまた以前に投稿したものの紹介です。
当時、明治図書の連合雑誌(江部・樋口の両編集長の手になるものは、そう呼ばれていました)の中では、現代教育科学が一番多く書かせてもらったのではないかと思います。
私のような新卒者にとっては憧れの教育雑誌であり、発刊当時から日本の教育界をリードするオピニオン誌として名声をはせており、そこに寄稿させていただく名誉というものを、後々実感いたしました。そのため、日本の著名高名な教育実践者・研究者に並んで名前が予告掲載されると冷汗三斗の思いを何度もしたものでした。(^0^)
今回のものは、免許更新制度が始まってから十年の節目に当たって特集されたものです。
その後、民主党が制度廃止を謳っておりましたが、政権をとっても実現することもなく現在に至っています。
今度も継続されていくものでしょうから、現場に戻って役立つこと、そして何よりも受講される教員にとって充足感充実感を提供できる講座内容にしてほしいと願っています。何万円も自腹で受講し更新していくものですからね。

FreeTalk関係者には、fbなりメールなどでコメントやレスポンスしてもらえるとありがたいです。

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現代教育科学二月号
特集 免許更新制十年目の講習内容を問う
3 社会性や対人関係能力の何が問われるか
(2)成長を続けるか、惰性に堕ちるか

札幌市立もみじ台南小学校
大谷 和明

一 十年目~節目と分かれ目

 (本稿では、十年目を教職経験として十年目と位置づけて構想している)
 現行法制研修には、初任者研修と十年研修の二つがある。十年目を節目の時期とするのはなかなか適時であると思う。十年目というと、大方は、二校目の勤務校に在籍している者が多いはずだ。中堅クラスの仲間入りとして、これまでのキャリアを考えた人事配置(分掌配置)をされていることだろう。 職員の年齢や経験年数などの構成によっては、主任・部長の命課をされている者もいることだろう。そのような時期での免許更新で、求められることは、次のことである。
メンテナンス どのような機械であっても、使用不可能になるまでは、定期不定期で状態を維持させていくためのメンテナンスが必要である。組織人としてのメンテナンスを求められるのが、すなわち十年目免許更新制度だと考える。
 ちなみに経験年数=キャリアではない。旧来型社会では、年功序列が普通であったが、現代社会では年々序列はあっても年功が伴っているとは限らないのが当たり前となっている。つまり、
キャリア=職能レベルという能力判断されているのが、現状である。その能力をこれからも向上させていこうとするか、維持に留まり惰性で送るかを迫られる時期が十年目なのだと私はみている。
二 対人関係 蟻の眼・鳥の眼を持つ

 蟻の眼とは二次元的視野という意味である。つまり、横のつながりへの目利きということを指す。すなわち、学級・学年経営に関わる対人関係を表すものである。
 対象は、児童・生徒となる。学級学年経営の力と一言で片付ければ簡単かもしれないが、今日的問題や課題を考慮するとそう簡単にはすまされない。
① 学習能力を科学的に把握できるか
② 障がいの有無・分析ができるか
③ いじめ問題の予防や実態把握ができている自信があるか
④ 不登校生への対応が適切だといいきれるか
⑤ 障がい児に関しては、生涯にわたる個別指導計画の一時期を担っている責任意識をもっているか
 この程度のことは常識として意識されていなければならないことである。学級王国の王様として安穏とした生活ができる時代は無くなっている。全学級規模や小規模校なら全校児童生徒にわたる人間関係や個別の情報・能力について指導材料として認識している必要がある時代なのである。だから、次のことが問題となるのだ。
アカウンタビリティ(説明責任) 説明責任には次の三つの責任があると指摘されている。
③ 結果責任 ところがどうだろう。結果に対する責任が曖昧とされてきた学校現場が多くないだろうか。ご自分の勤務先の実態を考えてみてほしい。さらには、計画を具体的に執行していき、途中でチェック改善していく「実行責任」が共有されていると自信を持って言える学校はどれだけあるだろう。
 次に示すのは、私の勤務校で行っている分節時評価項目である。五月・十月・十二月、そして総括として二月年度末評価として四回の定期評価をとって日々の実践チェックをしている。

1.教育課程の編成と実施状況について(一部省略)
(1)重点指標「自学力と共学力を育む学校の創造」に向けて、効果的な教育課程の編成ならびに実施が図られているか。
「自学力と共学力」を意識して計画されたことが実現できましたか?
(2)も南小の「生きる力(指導要領キーワード)」の実現に向けて創意ある教育活動が展開されているか。
学級学年経営上、「生きる力」を意識した実践がうまくできましたか?
(3)教育活動全般の評価を適宜行い、次の教育活動や次年度教育計画に生かしているか。
活動目標を設定し、実施後の評価を次の活動への材料とすることができましたか?
(4)教育計画作成に当たっては、教職員間で十分な検討を行っているか。
(5)児童・保護者の願いを把握し、それに応える教育活動を行っているか。
学級・学年の主体的活動を計画・実践することができましたか?
(7)命の尊さや社会のルールについて、適宜適切に学ぶ機会を設けているか。
2.教育課程の実施を通した子供の育ちについて
(1)一人一人の子供が、自分らしさやよさ、可能性を発揮しているか。
(4)到達度の低い児童に対する指導方法などを改善しているか。
(5)意欲の高い子に対する発展学習などの充実に努めているか。
(6)評価を意識しての指導方法を改善してきているか。
(7)補充学習など個に応じた視点で学習指導を工夫しているか。
3.外部との連携
(1)保護者は、学校の教育方針を理解し、両者の信頼関係のもとに教育活動が推進されているか。
(2)保護者や地域・関係機関など、外部の教育力が活用されているか。

 学年の横のつながりは、
機能集団意識を持つということである。

三 社会性としての「鳥の眼」

 学校全体を俯瞰するのが鳥の眼である。相互に関連しあっている分掌組織をいかに機能的させていくかという能力である。学校の教育目標具現を支えるのが分掌組織である。十年目ともなるとひとかどの力があるだろうから、各分掌トップを任されることが多くなる。自分の所轄だけでなく、他の分掌との関わりで業務や内容改善を図っていく上で、同僚との関係を良好に築く必要はある。コトラーは言う。
ンセプト』東洋経済新報社) この意識は重要だ。決まった仕事を管理するルーチンワークを監督するだけなら、学校が変わっていくはずがないのである。十年一日のごとしである。建設的な同僚性をどう築いているかということも問われることになるだろう。

四 社会性をみる法意識

 校外での対人となると「保護者・地域・関係機関」となろう。これらとの関係をどう良好に築いていくかという視点が要求されるだろう。
 しばしば社会性をうまく築けない人が、いたるところでトラブルメーカーとなってくるものだ。企業的に言えば、高リスクを抱え、高コストがかかる人である。自分が当事者ならすでに免許更新の対象外で、問題外だ。問題となるのは、そういった人たちとどのようにつきあっていくかということである。非協力的な保護者はもちろん、学校を批判・批難対象としてしかみていないのではないかと思わされる保護者が増えてきている。これは、社会性との関係から、次の能力を意識する必要がある。
法と倫理 今日、不登校問題が大きくクローズアップされている。この不登校に関することでも、取り組みの意識が希薄な人が多いものだ。例えば、不登校だと断定する根拠はなんだ?という問いに答えられる必要がある。ある人は、「正当な病気や事故欠席でなく十日ぐらい休んでいたら不登校だと考える」と言った。曖昧である。学校教育法施行令に示されている。明確な規準があることで判断でき、策が講じられるのである。勉強熱心な私のサークル員でさえ、指摘されるまで知らなかった者がいた。「話せば分かる」とか阿吽の呼吸だとか腹芸だとか言ってられないほど日本人の心のつながりは弱くなってきている。ボーッとしていると懲戒処分されたり、訴訟を起こされたりする時代なのだ。誠実な行動を執るのは当然のこととして、社会性を意識した対人意識を持つことが肝心だろう。

五 ソーシャルワーカー

 特別支援教育の枠組みが大きく変わってきた。学びの支援委員会のコーディネータには、ケーススタディに強く、照応する関係機関を見付ける学校のソーシャルワーカーとしての資質が求められる。十年目を過ぎて、めぐってくるであろう重要な立場である。当然、講習でも問われることとなるだろう。経験値を積んでおく必要がある。

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法則化流 教室経営のいろは

研究仲間の研修会で講師として呼ばれた時に持って行った資料を、自分のサークル合宿の講座で転用したときのものです。
元原稿では、枠組みしているものですが、テキスト文章をコピペしているので、うまく囲まれていませんが、ご了承下さい。
書籍の抜き書きもあり、関心のある方はご自身で原典に当たってみて下さい。
あるいは、現在私が顧問を務める「菊池道場札幌支部」月例会に起こしいただければ、このようなことを具体例を交えて、毎回ミニ講演をしたり、実践交流の際にエピソードを交えてコメントしております。
今年度の月例会メイン会場は、札幌市立ひばりが丘小学校です。時々、旭川は道内各地への出前サークルをすることもあります。
当座の日程は、
6/15(土)7/20(土)8/17(土)
です。いずれも13:00~16:00 二階会議室で行っております。休業日なので入校は12:45~13:00の間でお越し下さい。

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第1回 富良野・美瑛地区五色百人一首大会(「法則化set-up」拡大例会資料)
==========初出年月日===================
第2回 道央フリートーク'96 夏合宿(in 長沼温泉)       '96.8.2
  第4講座(大谷)法則化流 教室経営のいろは

Ⅰ.技量をみがくための30選から

1.決まりきった質問をして、決まった子だけが答えるという授業とは違って、一見あたりまえに見えることを否定し(優等生)の答えの底の浅さを見せつけるところから出発するこうした授業を、子ども達は喜んだ。
『教師修業十年』

  分析批評による国語の授業
  台形の求式の問題
逆転現象を引き起こす発問

2.「ほめる」ということはすぐにできそうだが、なかなかできることではないのである。「ほめまくる」こともひとつの芸であり、そしてまた大げさに言えば、思想の問題、人生観の問題であるのである。
 ある著名な身障児の研究者は「身障児でも美しい動きになれる」というような言葉を否定して、「身障児の存在そのまま美しいのです」と、発言されている。
 子どもでも同じなのである。体育の苦手な、身体表現のどたどたした子どもでも美しく表現できるようになれるということではなく、そのような子どもの身体表現がそのまま美しいのである。
 このように思う実践家と、そうでない実践家とは、実践に大きなへだたりが出てくる。『授業の腕をみがく』

   斉藤 喜博氏の図工指導の批評 
   向山 洋一氏の子ども観

3.どうして、全員の子どもが一斉に、即座に反応しなければいけないのか?どうして、口をもぐもぐさせてはいけないのか?
 これでは、軍隊で兵隊を教える調教ではないか。兵はあまり考えなくてもよい。命令に反応だけしていればいい。判断は将校がする。教師が将校で子どもが兵である。
 こんなことをさせればさせるだけ非知性的になる。知性は個人個人を尊重するところから育てられる。個人差があることを前提としている。
 「アブラナの花は、何枚だ」と聞かれて、すぐに反応できなくても良い。「えーと何枚だったっけ」と思い出す子がいても良い。「忘れちゃったな」という子があって自然である。「そういえば、思い出したぞ」と、口をもぐもぐさせる子があって当然である。
 そうした一つ一つの個性的な反応こそがまさに教育であり、それらの一つ一つをつなげれいくのが教師の仕事なのである。
 全員に大声で同じ答えを言わせることは、こうした一人ひとりの個性を圧殺することである。口をもぐもぐさせたことを連帯責任にするなど卑劣な行為であり、ファッショである。
 たとえ、授業開始直後の数分間のできごとだとしても、こんなことをしてはならない。
『授業の腕をみがく』

   「前へならえ」はするべきことか?

4.子どもの側に立ち、子どもの成長のみに価値観を求める実践なら、どれほど言われようとつぶれはしないし、批判されればされるほどさらにすぐれた実践を創り上げていくからである。
 こういう考えは、おそらく教師の世界の源流にあるだろうし、一つの風潮の盛衰はあっても、子どもの成長の側に立つという教師たちは必ずや全国あちこちの教育現場そのものが生み出してくるからである。
 私もそうした教師の一人であった。
『授業の腕をみがく』

   下関「ふくの会」代表 福山憲市氏のとりくみ学級通信 共育の思想 ミス0の会 

5.「つまずき」は、その授業の中心的なねらいが理解されていない場合に、学習者の誤った思い込みとの矛盾として発生するものである。だから、この場合はもう一度、一斉授業をすることが原則となる。
 「まちがい」はウッカリミスとした方が通りがいいかもしれない。学習内容が不安定にしか定着していない場合である。その基本的な要因は、ていねいさ・持続性が不足しているからである。この基本的要因をこそ克服させていくことが大切だと思う。とはいっても、その授業内容はその時々にしっかりと定着させなければならない。そこに一斉授業中における個別指導が必要とされてくる。
『授業の腕をあげる』

   定規で線を引く 
   赤ネコ漢字スキル(Toss方式) 
   計算の評価

6.私は「教師の願い」は、学級経営をすすめていく原動力であると思う。「願い」がない学級経営は、無意味に近い。
 「教師の願い」は、教室の教育に直接的に反映する。「教師の願い」を実現するためには多くの障害が存在する。それを克服していくための方略こそが、学級経営案なのである。
『授業の腕をみがく』

    新潟塾「2学期の学級経営案」
    向山 洋一氏(尋六)の学級経営案(あるいは圧巻指導案)

7.いかなる仕事にも専門的技量が必要である。専門的技量が存在することにおいて、仕事は仕事たりうるのである。
 だから、同じ現象を専門家と素人が見れば、専門家は素人の何倍も多くのことを見ることになる。
 開脚跳びを指導する場合、助走・飛びこし・着地をいくつに分析できるかで、教師の技量を判断することができる。わずか10秒たらずの開脚跳びの動きを、10にも20にも分解して説明できてこそ、専門的技量があると言えるのである。(『跳び箱は誰でも跳ばせられる』明治図書)
 技術をもって仕事にあたる人がプロなのである。
『授業の腕をみがく』

    相撲(などのプロスポーツ)の解説者としての力量


Ⅱ.子どもの動かすための30選から                   

8.「先生は選挙ですると、どうしてもなれない人が出ると思うので、じゃんけんでやってもらいます」と話した。「やだあ、そんなの」と、いつもなっているらしい賢そうな子ども達が言った。しかしぼくは、強引におしきった。「班長になりたい人たちでじゃんけんで決めます。なりたい人はいませんか?」と聞いた。7人ぐらいが手をあげた。「班長は誰でもできます。先生がついているから大丈夫です」ともう一度いうと、12、3人が手をあげた。やってみたい子は多いのだ。しかし選挙によれば、なれる可能性のある子は限定される。何度立候補しても駄目な子はいつしか”あきらめ”の心を住み着かせてしまうのである。「絶対になれない」と分かるころから、子どもは立候補しなくなる。その点”じゃんけん”は、子ども達にとって、完全に平等な選出方法なのだ。
『教師授業十年』
村田 栄一『じゃんけん党 教育論』よりも向山実践の方が先だそうだ
   「自由で平等な立場からの出発」(全国教育研究集会 東京都代表)
    第2回 自立合宿 公開ディベート(全生研 VS 知学研)
※全生研派・・・大谷 水野
知学研派・・・松本 宮崎(関口代理)
※「知的学級集団づくり研究会」は向山氏から向山学級を
つくるストラテジーを研究する会として認知されていた。

9.計画的に教育していくことについてであった。彼を軸とした教育は、一日、二日ではできない。思い付きでもできない。何本もの伏線が必要であり、いくつもの手だてが必要であった。計画的に手を打っていく、つみ重ねていくことが絶対に必要であった。
『教師修業十年』

    有田氏「教育は布石の連続である。」
    道南フリートーク『子どもを変える手だての定石』


10.指示の意味を語らなくてはいけない。
 そして、ここが大切なのだが、語り方は短い方がいい。
 十分も二十分も指示の意味を語ったら、聞いている方もだらけてしまう。
 「教室をきれいにします。ゴミを十個ひろいなさい。」
 この程度でいい。
 短く、スパッと言うのがいい。
 こういう一言こそが、子どもを育てていく。
『授業の腕をあげる法則』

    簡明の原則 
    趣意説明の原則   

これらが子どもの主体性を育てていく

11.

┌──子どもを動かす法則 ───────────────────┐
│ 最後の行動まで示してから、子供を動かせ │
└───────────────────────────────────┘

┌─教師が子供集団を動かす三原則と各3つの技能群 ───────┐
│ (1) やることを示せ。 │
│ ① 目標場面を描ける。(だから、ロマンに満ちた想像力と │
│ 創造力が両方、豊かな人がいい。) │
│ ② 目標を具体的にしぼり込める。 │
│ ③ 全員の子供のものにできる。(話し合いをさせる力、時に│
│ はガキ大将のようにアジテートする力も必要だろう) │
│ (2) やり方を決めろ。 │
│ ① 仕事の内容を明確にする。 │
│ ② 誰がやるのかを明確にする。 │
│ ③ いつやるのかを明確にする。 │
│ (3) 最後までやり通せ。 │
│ ① 時々、進行状態を確かめる。 │
│ ② 前進した仕事をとりあげほめる。 │
│ ③ 偶発の問題を即座に処理する。 │
│ 『子供を動かす法則と応用』│
└───────────────────────────────────┘

┌──5つの補則 ──────────────────────┐
│ (1) 何をするのか端的に説明せよ。(趣意説明) │
│ (2) どれだけやるのか具体的に示せ。(指示の具体化) │
│ (3) 終わったら何をするのか指示せよ。(空白禁止) │
│ (4) 質問は一通り説明してから受けよ。(混乱防止) │
│ (5) 個別の場面をとりあげほめよ。(個別の評価) │
└──────────────────────────────────┘

12. アマの教師と認定する基準の一つは、忘れ物表とシールである。
 子供をそのようなもので動かしてはいけないのである。忘れ物表はムチであり、シールはアメなのだが、どちらも同じである。
 子供の知性、教養、人格に依拠して教育していないからである。
 確かに、これらのものが使うと、手取り早く子供は動く。シールをもらうために熱心に仕事したり、勉強したりするように見える。だけど、人間の根本から教育しているわけではないので、しばらくすると化けの皮がはがれてくる。波多野誼余夫氏は知的好奇心がなくなってくると報告されている。
 私は今までに多くのすぐれた教師に出会った。そういう教師の中に、一人として「忘れ物表」「シール」などで子供を動かした教師はいなかった。たぶん、そういう教師は人格のもっとも深いところで、こうした方法を拒否していたのだと思う。
 子供の知的成長を促し、人格を豊かにする方向でこそ、子供を動かすべきなのである。
『子供を動かす法則と応用』
    『知的好奇心』 
     代償主義

13. クラス全体がとり組み、文化、スポーツ、レクリエーションの活動の中でこそ子供は生き生きと動き、きたえられていくのである。
 だから、核は固定してはならない。文化、スポーツ、レクリエーションのそれぞれの活動にふさわしい多くの子供が、核として認められ成長していけばいいのである。
 核の位置は、可動的でなければならない。特に小学校教育ではそうである。
 集団は何かをするために必要なのである。この平凡な事実を変えると、集団を自己目的化した集団づくりが行われてしまうのである。
『子供を動かす法則と応用』


14. 最後に「教育技術のチェックポイント」で、自己採点してみましょう。

『子供を変える手立ての定石』

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私の考える「基礎・基本」

すでに廃刊となった『現代教育科学』誌(明治図書)に投稿したものです。
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私の考える「基礎・基本」(『現代教育科学』掲載)

1 現場人としての哲学をもつこと

 小稿の機会を与えていただき、あらためて昭和五十一年来触れられてきた「基礎・基本」について、手持ちの文献を当たってみた。
 しかしながら、依然として曖昧模糊としている「基礎・基本」を簡明に定義し、説明しているものはなかった。
 そこで得た結論は、
┌──────────────────────────────────────┐
│ 現場人として自分流に「基礎・基本」を規定し、実践を通して定義していくことが│
│必要                 │
└──────────────────────────────────────┘
というありきたりのことであった。
 さまざまな識者の意見を見たのであるが、そもそもが時々の中教審・教課審、あるいは臨教審、そして学習指導要領で統一された定義があるわけでもなく、他律的にその中味を示してもらおうという姿勢自体が、現場人としての主体性を放棄しているともいえることである。そんなことを再認識したのである。結局は自分でちゃんと考えるということが最も重要な学究姿勢であると感じたところである。

2 12年ぶりの邂逅

 この夏、12年ぶりに教え子たちと顔を合わせる機会があった。
 23才を迎える青年たちである。
 「パチンコ店で働いています。」と元気に答えるO。
「福祉関係の資格を取りたいと思っています。」と旺盛な向上心を持つK。
「老人ホームの仕事をがんばっています。」と明るく語るI。
 どの子も充実した青春を謳歌している様子であった。
 12年前の面影が残るその表情の端々にどの子も「生きる力」を覗かせているのを感じることができた。
 私の隣に座ったやんちゃ坊主だったOの口から出た質問は意外にも、
「先生、今でもギターを弾いていますか?」
というものだった。
 思えば、3・4年生の2年間を担任する前から、子ども達は前担任とギターで楽しく歌っていたものである。
 いいことは受け継ごうと思っていた私は、授業の中や朝帰りの会、お楽しみ会などいろいろなところでギターを共に学級づくりをしていたように思うのである。
 小学校の4年間をギターといっしょに過ごしてきた子ども達にとって、それは何にもましてなつかしいことなのであったのだろう。
 当時は複式学級を担任していたので渡りずらしのための学習ワークやプリント作成、2倍の教材研究などのことの方が、印象深いことではあったが、少人数ながらも楽しく活気のあった2年間だと記憶している。自分の子どものころを思い出してみると、やっぱりつらいこと困難だったことよりも楽しかったことや嬉しかったことの方が記憶に多いものである。
 結局のところ、年間1000時間前後の授業を通して、生き残っていく記憶は、私や子ども達には《快》の部分が圧倒的であったようだ。
 そんな《快》的な学校生活が、いまこのときを元気に生きている子供たちの生きる力となって根づいているのだと感じたのであった。

3 「基礎・基本」私のとらえ

 人格形成の面から教科・領域指導を見た場合、読み・書き・算は生活していく上で必要な技能であることには間違いないが、生きていく上では最重要な能力ではないと、私は考えている。 九九の暗唱、水溶液の性質調べ、説明文の構造学習がどんな人格形成を促すのかなどのナンセンスな論文はまずないだろう。
 論点となることは、
┌──────────────────────────────────────┐
│各教科・領域の学習体験がどのように人格形成に影響を与えていくのか │
└──────────────────────────────────────┘
ということだろう。
 いろいろな教科・領域での指導・学習を通して、知識を取り除いて残る部分こそが、その人を支える「基礎・基本」となっていくことではないかと考えるのである。
 これは、以前からあがっている知育偏重主義への批判と合い通じることと思う。
 12年ぶりに再会した子ども達の姿をみて、現場人としてあらためて自分なりに「基礎・基本」を再考した。
┌──────────────────────────────────────┐
│「基本」とは、自分らしさを持ち続ける力。 │
│「基礎」とは、生きていく上での底力・したたかさ。 │
└──────────────────────────────────────┘
 もう少し、言葉を足してみる。
「自分らしさ」の他に、「自分を失わないこと」「いつでも自分に戻れる」「自己確立」「自信」などの文言を想起することができる。
 さらに「基礎」の部分。
 「生きていく上での底力・したたかさ」に言葉を足す。
 「自己信頼」「可能性の追求」「挑戦心」「意欲」「革新性」
 以上の文言を〈鍛え、高めていく〉ような定着方法を、学習指導場面で追究していくことが、『現場人として基礎・基本を定着させていく』ことになるものと私は考える。
 こんなことを思いながら、立派に成人した子ども達を目の前にし、自分を再評価してみた。少なくとも子ども達に暗い影を残すことなく、再会の場に呼ばれた身の上を、つくづくありがたく思ったところである。
 子ども達は、私の指導の後にもいろいろな人々との出会いがあり、それぞれ学びの場があったはずだ。そして、そこを生きていく中で、今の自分を確立してきたのである。
 私もその一人としてかかわりをもていくばくかのプラスになれたことを、大変うれしく思ったのである。

4 マクマスターに学ぶ

 生きるということは、ポジティブなことである。
 主体的・能動的な学習者を育てる上では、
┌──────────────────────────────────────┐
│いかにして学習の必然性・必要性を持たせていくか? │
└──────────────────────────────────────┘
という点に指導者として意識が集中しなければならない。
 動機付(モティベーション)や課題意識の喚起が重要視されるゆえんである。
 短い教師生活を通して、私が意識的に持ち続けてきた「基礎・基本」について、目から鱗が落ちる思いのする話があった。
 「マクマスター方式」の指導だ。
 『読むクスリ 26』(文藝春秋)によると、
┌──────────────────────────────────────┐
│ カナダのマクマスター大学医学部では、教官は学生に知識を伝授できないという。│
│医学生が自ら学ぶように「指導」するだけ。 │
└──────────────────────────────────────┘
なのだそうだ。
 学長の思想は、『必要なのは、自分で発見する能力であり、自分で問題解決をする能力』だというものである。 ここ数年、生活科を研究し、総合的な学習が設置されることになった現況をみると、このマクマスター式は最も私の理想とする学習スタイルかと感じているところである。
 〈知識が必要なら百科事典を背負って歩けばいい〉ということが、技術革新で〈百科事典はポケットに入る〉時代へと変わってきた。
┌──────────────────────────────────────┐
│知識でなく、知恵を獲得する時代 │
└──────────────────────────────────────┘
になった。
 生きていく力である「基本」となる『自信』の確立には、成功体験の蓄積が必要である。
 すでに述べた「基礎・基本」に関連する文言の妨げやそれらをつぶすようなことをしないということを意識するだけでも、子ども達の基礎・基本形成に大きな働きをしていくことになると私は考えている。これはネガティブな考え方である。
 もっとポジティブに考える。
 『自信』の確立は、プラスの自己評価の積み重ねが必要である。
 精選された内容で繰り返し学習するなかで子供たち自身が「理解する」こと、教えられたことではなくて、学び取ったことを子供自身が自覚できるような指導方法をこそ、現場人として追究していくことが必要なのである。
 「飽きるまで体験させる理科授業」「変化のある繰り返しで臨む算数の授業」「自ら内容分析を行う分析批評の授業」「自らの生き方を問い直すライフスキルの授業」「自らの働きかけで自分の有用感を感得するボランティア授業」等々、法則化運動が進めてきた授業のどれもが『子供自らが自分を高く評価していける授業のモデル』となっていると私は思うのである。
 自分に自信がもてる人間は、どんどんアクティブに行動できる。
 創造的な活動を創出することができる。
 そして、
┌──────────────────────────────────────┐
│生きることを楽しむことができる │
└──────────────────────────────────────┘
ようになる。
┌──────────────────────────────────────┐
│ 精練された学習活動の中から、基礎・基本が形成される │
└──────────────────────────────────────┘
 「知的」という言葉に象徴される精練された学習をどう保障していくか。 これがとりもなおさず、「基礎・基本の定着を図る」指導方法の研究となっていくものと考える。
 いずれやってくる教科改編の流れにむけて、現場人としてこのことを危機的に考えていける者が、教室崩壊を回避でき、楽しい学級経営を展開できるのだと思うのである。

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2019年5月 8日 (水)

「看脚下」〜意外な発見

友人知人らが発信していた「致知」6月号がようやく届く。SNSで発信されていた齋藤孝氏と隂山英男氏との対談に目を通して、今月号の特集「看脚下」(お~、一発で変換できた)の解題頁を見ていたら、驚きの発見があった。

<<以下、引用>>

教育者東井義雄氏がその著『自分を育てるのは自分』(弊社刊)に書かれている話である。

大島みち子さんという女性がいた。子供の頃は頭もよく、体も健やか、本当に可愛い、いい子だった。

その大島さんに異変が生じたのは高校に入った時だった。顔の軟骨が腐るという難病にかかったのだ。

<<引用終了>>

この時点で『愛と死をみつめて』の悲劇のヒロイン・大島みち子その人であることが分かる。

私らの年代で、元祖純愛物語といえば、これである。

映画では浜田光夫と吉永小百合のゴールデンコンビで、「まこ・・甘えてばかりでごめんね・・・」のフレーズが記憶に残っている。アメリカのラブストーリー上映の前の話だ。

余談ながら解題に記されてある河野誠~とあるのは、河野實(まこと)が正しい。

 

なんと、東井義雄氏が大島みち子の文章を引用していたとは知らなかった。

解題はこう締めくくる。

<<引用開始>>

自らの人生を看脚下し、見事に生きた人の姿をここに見る。若くして逝った女性の生き方に倣い、私たちも自らの看脚下を深めていきたい。

<<引用終了>>

 

思いがけない発見だった。それにしても、大島みち子さんが書いた『若きいのちの日記』を読まねばならないな。Img_9552_1

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基礎教養の習得と「個性重視」は矛盾しないか

これは以前に雑誌に投稿した論文の一部である。

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 特集

  「個性重視」の教育言説を疑う

基礎教養の習得と「個性重視」は矛盾しないか

 

1 総論では矛盾なし・・だが・・

 

 

  基礎教養の習得と「個性重視] は矛盾しない

 

 これが私の結論である。

 ただし、それは総論としてである。どの領域・教科を基礎教養とするかという各論では、矛盾を感ずることがある。

 昔から言われる「読み」「書き」「ソロバン(計算)」部分を基礎教養とみなすならば、生活上での必修の教養事項として必要であろうし、基本的な能力としてなら、個性を配慮する必要がないだろう。したがって、矛盾することはない。昔の寺子屋方式がそうだった。

 しかし、それら以外の教育内容・活動については疑問を呈したり、矛盾を感じることがある。

 図工や音楽は技能面を鍛えるということを除けば、一人ひとりの感性の影響下にあることだから、それを基礎教養としてよいことなのかどうか。

 一応私が基礎教養とする範疇は、基本的には読み書きソロバン部分ということである。

 ましてや、「心の教育」で再び道徳教育の強化がさけばれているが、その道徳教育、とりわけ「道徳の時間」指導を基礎教養とすることの是非は、ずいぶん昔から論議されてきていることであり、未だに解決がつかないことである。

 そんな中で、日経連セミナーの席上で梶山官房長官が「戦後日本の教育は産業界の下請け機関だったのではないかという気がする。」(八月七日付け毎日新聞)と述べ、戦後教育が経済的価値を優先してきたことを批判している。

 没個性・画一教育として推進されてきた戦後教育を見直し、行政側からも積極的に、個性重視の教育を推進しようとする大きく胎動を始めたの感がする。

 

2 現場では個性を念頭に置いてきた

 

 子ども達一人ひとりの違い、それを個性の違いととらえ、それに基づきながら学習指導方法について種々実践研究を進めて来ているのが、現場の研究であるはずだ。

 これまでに発表されてきた実数は正確にはカウントできないほど、たくさんの研究成果が発表されてきているのである。

 「個性を重視することが基礎教養の習得の妨げになるか」と訊かれると正直、私たち現場人が取り組んで来たこと取り組んでいることに疑問を投げかけられる格好で、いささか居心地が悪い気がする。

 教育とはそもそもが、自己意識の変革を伴う行為である。

 自己否定・自己の既存意識の破壊、そしてそれに伴う再生・改善・向上・創造への繰り返しが「成長」であり、この中で個性が強固に形成されていくものだと私はとらえている。

 そのことがよく言われる「個性の伸長」ということだと解釈している。

 本稿に与えられたテーマを考えるに当たっては「個性重視」「個性尊重」の違いについて、まず触れる必要がある。

 

3 「個性重視」「個性尊重」の違い

 

 この二つは、私の意識の中では、次のように分けてとらえられている。

 

 「個性重視」→積極的に個性を生かそうとする指導姿勢

 「個性尊重」→個性をつぶさないようにする指導姿勢

 (指導の配慮姿勢)

 

 しばしば、両者を同義でとらえられる向きがあるが、私の中でこの二つは「ノット・イコール」の関係である。 本項テーマを次のように命題変更してみる。

 

 基礎教養の習得には「個性重視」をするべきではない

 

 この命題なら非難・批判にさらされることは必至である。

 なぜなら、個人としての人格や学習権を否定するようなニュアンスがあるからだ。

 私たち現場教師は、個性を尊重するからこそ、教材研究では子ども達の違いを考慮しながら、指導方法も工夫しているし、評価についても検討している。

 また、個性を重視するからこそ、どの子も学習の主体者として満足いくように授業運営についても検討しているのだ。

 学習の主体者をやがては、生活の主体者へと導くために必要な基礎教養を習得させるべく、私たち教師は努力を払っているのである。

 「個性重視」が基礎教養取得に矛盾をもたらすのであれば、一体私たちの行為にはどのような価値があるというのだろうか。

 

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2019年5月 4日 (土)

グループ学習を成功に導く7つのポイント~グループ編成~ グループ学習を成功に導く7つのポイント~グループ編成~ グループ学習を成功に導く7つのポイント

数年前に某雑誌へ寄稿したものです。

原文は縦書きのものです。

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        全員活躍!グループ学習でアクティブ・ラーニング

  グループ学習を成功に導く7つのポイント~グループ編成~

                                           大谷 和明

1 二人(ペア)の場合

 

 グループ学習で最小単位がペアであり、かつ最も活用頻度が高い形態である。そもそも隣り合う組み合わせだから、相性が悪い者同士が席を同じくされているはずがない。学級経営が安定し、相互排斥が無い理想的な学級状態であれば、どんなペアでも学習活動が機能するはずである。

 私がペアを取り入れる場面を列挙すると次のようになる。

① 相互チェック

 『教科書35ページの□1を指さしなさい。お隣とチェック。』のように正しい箇所を注目できているかを確認させる。相互扶助の効果もある。

② 評価

 ごく簡単な小テストの○付けや学習行動に関する評定(例えば、音読で会話文をきちんと声量を高くして読めていたか)を相手に伝えたり、漢字空書きの筆順が正しかったか、ノート記述を交換してみるなど。

③ 協働学習

 発問に対して、○×を検討させる。この際、両方とも同じ答えかどうかを教師が確認することがポイントとなる。『両方とも○のところ?×のところ?』これに引き続き『自信のあるところ?』と添えることが多い。○派と×派の論争に発展することがあるが、ペアリングによる論争だから、自ずと協力体制がとられるものである。

 

2 生活班には発表者番号を

 

 学習班なり生活班で学習活動をすると、どうしても発言力やリーダーシップのある子どもが主導権をもち、そのまま代表発言しがちだが、共同学習として発表するのであれば、平等に発表してもらいたいものである。

 そういう場合、私は発表者番号を事前に決定させるようにしている。5人グループであれば、一番から5番までを一人一人に割り振るのである。発問後は、『二番の人に答えてもらいます。』として、各班の二番の者が答えるわけだ。

 消極的であったり、控えめな子どもでも発表する機会を得て、自ずと他の班員からの協力・援助も生まれてくるものである。

 この発表者番号方式には、学習分担を機械的に割り振る上で効果的な面がある。例えば、一番が司会、二番が賛成は意見、三番が反対派意見、四番がタイムキーパー、五番がジャッジ、というようにミニディベートの役割分担をしたり、理科実験や体育での操作・記録担当の係を指定することで、時間短縮を図ることができる。一単元の中でのローテーションとして活用することで、各係での活動のパフォーマンスをみとることもできるのが利点といえる。

 

3 目的あるグループ編成

 

 以上は、比較的ランダムであったり、無意図的なグループ編成であるが、学習目的に沿ったグループ編成が必要なこともある。

 例えば、調査対象を同じくする者同士だったり、プロジェクト型学習のように目的共有型のグループの場合、編成の必然が伴う。

 取り分けプロジェクト型学習グループであれば、組み合わせによるポテンシャルが大きく異なってくることが予想される。 

 相互の役割分担や意見交換、具体的なアイデアの検討・・という協働学習として、プロジェクトの成功を指向させていくには、教師のファシリテーション力を大きく求められることになる。

 学習内容重視から資質・能力重視へ大きく転換する次期学習指導要領の目玉となっているアクティブ・ラーニングの実践例を蓄積していくにあたり、読者諸氏には、グループ学習を成功させるポイントとして心得て実践されることを強く願うものである。

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【過去ログ】21世紀を生きる

これまた5年前の「学校だより」掲載の文章です。

すでに新しい学習指導要領実施に向けた動きがあった頃のものです。

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21世紀を生きる   教頭 大谷和明

 この冬休み中もまた「冬働き」でした。いろいろなところで、力のある実践家や研究者の方々と研修を積むのは楽しいものです。興味関心があって知的に楽しいものごとには、遊びとの境界がないものと感じます。子ども達にとってもそうでしょう。知的に楽しい授業であれば、国語でも算数でも体育に勝ることがありますね。

 さて、この冬ではこれからの職業について考えさせられる機会がありました。サイトで検索されると出てきますが、今後、機械やコンピュータや(二つを融合したものとなる)ロボットに取って代わられる仕事が予想されています。なかなか厳しいものがありますが、いくつかは予言通りになりそうな気がします。それに加えて、これまでにない職業というものが登場してくるだろうということも考えられています。例えば、現在の携帯電話やスマホ関係の仕事は、30年前にはなかったものです。インターネットや通信インフラの発達というバックグラウンドから生まれてきた、全く新しい仕事でした。これと同じようなことが、今後、いくつも生まれてくるであろう・・ということです。どんな新しい仕事にでも、対応して適応・順応していく能力を身に付けさせるのが、大人たちの役目になるというわけです。

 日本はこれまでの国家モデルが貿易加工立国として進んできたわけですが、工場があって労働力として働く場がたくさんあったものが、今や工場は主として中国や東南アジアへと進出していく中で、労働市場の規模縮小がどんどん進んできた感じがします。

 これに加えて少子高齢化の波が着実に、しかも加速度的に進んでいる現状があります。ますます厳しい社会情勢が待ち受けているようで、現状維持は相対的に下降衰退の途と見た方がよいかもしれません。

 今般、文部科学省が次期学習指導要領の改訂に向けて、中央教育審議会答申を受けてきた中で、アクティブラーニングや21世紀型能力(あるいは「スキル」と呼ばれる)の開発・育成が国家プロジェクトとしても重要であるという認識に立つようになってきました。この冬で参加した研修会でも、この認識に立っての内容のものが多かったのですが、なにかこれまでには無い、全く新しい取組や考え方なのかな?というのが、率直な私の感想です。

 というのも、毎年4月に行われる「全国学力状況調査」で、PISA型問題と言われる知識応用型問題は、これまでの教育を受けてきた人には解答できないものか?と問われれば「否」となるからです。確かに知識の当てはめだけでは解答できない問題ではありますが、問題理解力と科学的な思考力があれば、誰でも解答できるものです。ただし、私たちの子どもの頃教育内容や方法で臨んでいるとすれば、解答困難であったであろうことは想像できます。では、なぜ現状の私たちには解答できるのでしょう?その能力が培われているからです。問題となるのは、その能力がいつ・どこで培われたものなのか?ということです。

 大方が同じかと思いますが、やはり「自学自習」の力というものが、基底にあるのではないでしょうか?教育現場に求められているのは、まさに「自ら学ぼうとする意欲づくり」にあります。教育現場というのは、学校だけでなく家庭教育、社会教育とおよそ学ぶ場として提供されているところ全てといってよいでしょう。

 この「自ら」という言葉を基調とした学習、それがアクティブラーニングの本質だと私は捉えています。しかもそれは、これまでにもあったという認識でいます。高い力量を持つ教師の授業は、ほとんど例外なく「子どもの主体的な学習」を取り入れるものが多いと感じています。受動的な学習より能動的な学習を基本とするものです。ただし、間違ったとらえ方をすると、過去にもあった「活動主義的授業」というものに陥ってしまいます。「活動あって学び無し」と称されるものです。

 このアクティブラーニングを通して、21世紀というグローバル社会を生き抜く力とそのための能力(21世紀型能力=スキル)を育てる授業づくりという課題が、今、教育現場に求められていることを強く認識されられた「冬働き」でした。

 3学期がスタートし、平成26年度は残り40日あまりとなりました。子ども達ともども元気で活力ある学校づくりを進めていきたいと考えています。

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2019年5月 3日 (金)

歌謡曲の現象学 山下達郎にみる人生論

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20年も前に書いたチャラい文章とはいえ、投稿先は堀裕嗣さんが代表を務める研究集団ことのはの機関誌『礎石』である。

これまで数々の研究団体やサークルの同人誌や機関誌を拝見してきた中でも、格別の骨太感と内容のボリューム感に圧倒されたものでは、これ以上のものに出会ったことがない。

そんな機関誌への投稿文章である。

さて、このブログにアップロードするまでが結構大変だった。

1)元の文章はキャノワード作成なので、テキスト文章を一太郎用に変換するので一苦労。

2)歌詞部分を枠組みしてあるため、そのままのデータではアップロードできないため、画像形式の保存とpdfファイル変換保存を用意。

3)操作PC環境がiMacによるBootCampためか、アプリケーションエラーが頻発して何度かデータクラッシュ。(>o<)

結局、こうなると純粋なWindowsマシンを購入するのが得策かもしれないと学習す。(^0^)

画像版とpdf版と両方を載せてみた。

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ヒデちゃんの思い出

以下は、昔、学校だより用に書き留めておいたものです。

 幼なじみのゆうちゃんは、私の一才年上のお友達です。道路をはさんで向かいに住むゆうちゃんとはよく一緒に遊んだものです。私の子どもの頃は、一才年上でも格上という存在で、基本的に従わなければならない存在でした。
 ゆうちゃんには、ヒデちゃんという大柄な兄さんがいました。当時はよくわからなかったのですが、年齢的には私らよりも10才くらいも離れていたのではないかと思います。学年で計算すればわかることなのですが、あいにくとヒデちゃんは私たちと同じ学校には就学していなかったのでした。知的な障害を持っていたので、普通校には通っていなかったので、学年が分からなかったということです。
 ゆうちゃんの家は比較的大きかったので、部屋遊びといえばもっぱらゆうちゃんの家が多かった記憶があります。そして、私たちが何かをしていると決まってヒデちゃんが自分のお気に入りの乗り物のおもちゃを提供してくれるのでした。提供というよりも、半ば押し売りのような感じがしたのですが、心の優しいヒデちゃんでしたから、むげにも断れず、とりあえず一緒に遊ぶことにしていました。
 ある時、学活で担任の高木先生が不審者の話をされたことがあります。内容から察するに、どうもヒデちゃんのようなのです。話の途中から、「それは友達の兄さんです。」という簡単なことを告げようとしたのですが、その時の私はできなかったのです。
 子供心に、先生の文脈から不審者?!の知り合いにくくられることを避けてしまったというわけです。もちろん、後々後悔することになるわけです。誤解を解いてあげることが、その時の私の使命であったはずですが、自分のことを一番に考えてしまったというわけです。
 それからというもの、私は気まずさからヒデちゃんを避けるようになったのですが、元はといえば、自分の行動の後ろめたさを隠そうとしていたに過ぎません。こういう罪悪感というものは、なかなか払拭できないもので、今でも申し訳ない気持ちが心の隅に残っています。
 あの頃、近所には耳の不自由な友達もおり、言語は不明瞭ながらお互いにどうにか意思疎通を図り合いながら遊んでいたのですが、社会的に聾学校が整備されてくると、なんとなく疎遠になっていったことを思い出します。
 当時は、向こう三軒両隣どころか、町内1~2区画くらいの範囲では、どこにどんな人が住んでいるのかとか、その家の構成とか嗜好物なんかにいたるまで、実にいろいろなことを知り合っていたものです。ここだけの話ですが、「講」の文化がまだまだ色濃く残る地域で、相互扶助の地域体制があり、支え合う地域風土というものがあったのだと思います。
 あれから半世紀も過ぎて、世の中の便利さに反比例して人のつながりはどんどん薄くなってきたと実感する事件が次々に起こっています。「隣は何をする人ぞ」という殺伐とした社会が現代社会の実態です。ここのところの不審者情報も、どうもそんな社会的背景に過敏になっていることへの反応の表れなのかもしれません。先週、続いて発行した不審者情報も、注意喚起を促す「速報性」を重視するため、出されたものですが、どうも情報収集と分析をしてみると、背景にある真理というものが異なっているような感じなのです。
 子どもたちに人物の善悪見極めを求めることは難しいことではあり、本当の?不審者に対する構えを持たせることは大事なことに違いはないのですが、今一度、ご家庭の中でも話合いの材料に供していただければ幸いです。

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