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2005年9月

2005年9月29日 (木)

行かない・行かせない心理

どこでも不登校問題を抱えていることとは思うが、そのケースは多岐にわたる。今週の我が校の場合、保護者の体調が思わしくないということで、知人宅に子供を預けて登校させていないという出来事があった。預かり先から電話連絡があったのだが、居宅から学校までが通える距離ではないので学校を休ませます。本人はいたって元気ですという趣旨であった。
もともと学校には足が向かない傾向があったので、ますます拍車がかかるのでは?と心配である。
それにしても、児童相談員や地域の福祉士などに依頼すれば、自宅から通学させることも困難なことではないのだろうに、簡単によそに預けてしまうという気持ちが図りかねるできごとである。
私が子供頃は、学校を進んで休むとか休ませるというこは全くなかった。とにかく休みたくなかったのである。
それは、学校が大好きというわけではなく、休むこと自体に罪悪感や後ろめたさを覚えるからだった。
やむなく休んでも連休はせずに登校していた。多少の微熱では休まなかった。休んでから登校し、教室に入るときの気分がいや~な感じであったのだ。といって、友だちが白い目で見ていたというわけでは、もちろんない。
単に自分がいやな気分になっていただけである。そんな気持ちを持たなくなったのは、大学に入ってからである。(^_^;)翻って、今の子供や保護者たちをみると、実に気軽に送迎するし、簡単に休ませる。もちろん、学校は預かり所ではないから、病気気味なら休ませるのは当然であるが、病気でもない、特別な理由でもないのであれば、登校させることが当たり前という心理状態でいてもらいたいものだ。

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2005年9月27日 (火)

桃李不言 下自成蹊

桃李不言 下自成蹊 【司馬遷『史記』】

私の当時の職場の長(嘉多山学校長)が、酒井臣吾先生の大学ご退官記念として色紙にしたためてくださった句である。
あるHPの説明には、次のように解説されていた。
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 司馬遷が著した中国で最初につくられた通史「史記」の中のことば。桃李言わず、下自ずから蹊(こみち)を成す。桃や李は何も言葉は発しないが、花や実に誘われて多くの人が、その木の下を通るので、自然と道ができる。人間も同じで、人徳のある人は自然と人が慕い寄ってくる、と言う意味です。
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酒井式の実技研修会に集う者たちは、自分自身が絵を描くのが苦手(はっきりいって下手(^_^;)、そして、なによりも図工の指導が苦手という者が多い。だから、少しでも子供たちにマシな指導をしてあげたい・・そんな共通した願いを持つ者が集っている。
酒井式が昔から批難中傷の中でも、子供自身に満足してもらえる絵を描く手伝いをしてきたという酒井先生の実践の後に続く者たちだから、志が同じなのである。そんなことを思い出させる言葉だなあと感じている。


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2005年9月25日 (日)

「○○力」の拡大使用

 どうにもこうにもわけのわからない語用が多くて困る。
 最近では、「国語力」「英語力」はては、「人間力」というのまで出てきてしまった。
 「○○力」というのは、企画力・指導力といった動名詞にくっつけることが多い。企画する力であり、指導する力である。国語する力・英語する力・人間する力(^_^;)なんていうのは、噴飯ものである。それをまじめに使おうとしているところに眉唾な感じがするのだ。
 国語力については、尊敬する野口芳宏先生が、「これまで通り、国語学力というべきである。」と力強くおっしゃっているが、大賛成である。あれこれと混沌としている第三の波への過渡期の昨今、いろいろな行政分野も分かったようなまやかしの造語で大衆を欺こうとする動きが感じられ、不愉快な時代だなと感じている。
 自分の生き方さえようわからん連中には、こんなあやふやな言葉でもなにか光明を見いだすことがあるのかもしれないが、肝の据わっていて自分の判断基準をしっかり持っている人には、曖昧な言葉でフラフラすることはないだろう。混沌の時代だからこそ、そういう一本気で筋の通った人にこそ、あらゆるところで指導力を発揮していってもらいたいと思う。

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学校評議員は誰がするのか

 昨年8月に河村文科大臣が 出した「義務教育の改革案」に次のことがある。
○保護者・住民が学校運営に参画する「学校評議員」「学校運営協議会」の全国化。
北海道でも徐々に広がりを見せている学校評議員制度であるが、評議員に委嘱されているのはだれなのか?ということが気になるところである。河村大臣が示す改革案では、「保護者・地域が・・参画」とあるわけだから、校下住民のだれかが就任することになろう。
 果たしてそれで「公教育」の評議員として務まるのだろうかというのが気になるところだ。
 資格問題は厳しく問われることはないであろうが(何しろ、学校長の推薦により、教育委員会が委嘱するわけだから)、適格性は問われることと思う。
 すると地域の名士かPTAの役職者かというあたりだろうか。実際にPTA会長が評議員となっているところもあるやに聞く。私は、それには反対である。教育の中立性を重んじ、公教育の果たすべき役割を認識する者であれば、客観的第三者として評議するものが適格ではないかと考えるのである。
 PTA役職者ならば、内部監査的な位置づけが感じられ自ずと腰砕けになりそうだし、第一、学校職員が窮屈な感じを受けることだろう。
 ここは、保護者でもなく、地域住民でもない別なところから、無報酬で評議する人に任せるのが適策かと思う。
 評議する学校に気兼ねなく、おのが責任感だけで職責を果たしていくなら、一切の気遣いをしないですむところから評議員に御願いしていくのがよろしかろうというのが、私の考えである。

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2005年9月24日 (土)

教科の存在意義・学校の存在意義

 NHK「わくわく授業」で酒井式描画指導法主宰 酒井臣吾氏の授業が放送された。酒井式に関しては、兼ねてより賛否両論の意見がみられる。古くは、酒井氏が新潟県下で一般教諭として実践発表されていたころに始まり、新しくは、今回の放送を視聴してからのものである。酒井氏が終始主張されてきたことは、指導論として授業主張されている点である。
 図工・美術という教科を通して付ける学力とはなにか?それは、「造形する力」であるという主張である。
 自分も含めて周りの人たちの中で、日常的に読書をしたり、計算したりする人は多いのに、絵を描いたり、飾りを作ったりする人はあまりいない。極端に言えば、絵を描くことが苦手な人たちばかりであり、絵を描くのが嫌いな人が多いということである。学校生活や日常生活を通して、様々な学力を身につけてきているにも関わらず、造形することがあまりないのである。
 技術がなければ、意欲もない。それが実態という人が多いことだろう。
 オールラウンドで教科指導をする小学校教師には、指導する技術を持たない者が多いのが実情だ。好き嫌いで指導したりしなかったりすれば大変である。一応、形だけ指導らしきことをするが、誠実な人ほど、子供の学力形成の一助にならない自らの指導を嘆いている。何よりも、自分で描いた作品に愛着が持てないような子供にしてしまうことに罪悪感すら感じている教師が多いのである。(これは私の経験からみて感じているところです)
 図工の時間が楽しく感じられ、授業を通して学級づくりも進めていける指導方法の一つとして、具体的な手立てをもって登場してきた指導方法、それが「酒井式」というわけだ。
 NHKでは個人情報問題の絡みもあり、放送できなかったのだろうが、「わくわく授業」で登場した学級の子供たちの中にAD/HDの診断を受けているお子さんがいたそうである。そのお子さんの変容がすごかったそうだが、そういう授業事実をこそ、放送で扱ってもらいたいと強く思っている。
 厳しい学級状態の中で授業することが大変だという教室が全国中にある。そんな中でも、子供たちが喜んで学習し、自信をつけていける授業を提供できる指導法は他にもあることだろう。
 酒井式を批判する方々には、好き嫌いを語ってもらうのではなく、具体的な授業論で語ってほしいものだ。
jizou

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小学生の校内暴力最悪?!


23日付けの朝刊(読売)で表題の記事が一面をにぎわせていた。キレる子供(大人もそうだが)が増えている現状をみているとうなずけるものがある。全体的にみてそうだろうと思い、詳細記事を見てみると意外なことがわかった。各都道府県別の集計結果である。2003年度・04年度増減という順番で一覧表があるのだが、どう見ても格差が大きすぎるのである。ちなみに北海道が10・7・-3に対して、ダントツの3桁自治体を並べてみると次のようになる。
神奈川 237・318・+81
大阪   243・320・+77
兵庫   177・173・-4
大都市の東京はどうかというと、
東京  39・43・+4
である。管理教育強化地域?!をみると
千葉  51・59・+8
愛知  40・21・-19
少々信じられない数値である。もっと多いと思っていた。
しかも、山形、福島は「オール0」である。宮崎、鹿児島とも04年度が0なのである。2003年度でも「2」しかないのである。このデータを信用すると一体この格差をどう説明できるのだろう。

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2005年9月12日 (月)

疑問な通達

札幌市教委から「不登校でもIT活用の自己学習で登校扱いにできる」旨の通達があった。世も末かな・・(^_^;)
在籍しているということで、学校長の判断のもと、不登校でもしかるべき学習をしているのであれば、指導要録には登校日数としてカウントしてよいというのである。つまりは、ちゃんと勉強していれば、欠席扱いしませんよ・・というわけだ。これでは、何のための学校なのかと思う。人が教え、人と学ぶところだからこそ学校の存在意義があるのに、単なる認定機関としてしまう施策には疑問を抱かざるを得ない。極端にいえば、不登校への免罪符が発行させられたわけだ。塾の反映やNPO法人でもフリースクールがどんどん増えている現状を考えると、公立校の未来はますます暗くなるばかりだ。

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模擬授業体験

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「第16回 酒井塾(酒井式描画指導法実技研修会)」が苫小牧で行われた。このところTOSSに限らずいたるところで模擬授業が花盛りである。教師の力量を高めるための試みとしては、日本独自のものではないかと思われる。(そもそも欧米には、現職教育として授業の腕をあげることをねらった授業研究はあまりないようである)
それはともかく、今回の私の授業は円山応挙の「付立」技法を、水彩画でも応用していくという提案授業であったのだが、授業の要素よりも提案性が強くなってしまって「講座だった」という評価を受けてしまった。担任をはずれて3年ともなると、さすがに授業の腕はミルミル落ちていくのが分かる。
写真は、一発一筆で「幹→大枝→中枝→小枝」と描き進めていくものである。よくよくみると分かるとおり、白を基調に少しずつ黒を混ぜて、小さく描き添えていくと奥行きも表現できる。これもまた応挙の技法である。蕪村もまたこの技法を取り入れたようだが、それほどメジャーな技法とはならなかったようである。しかし、これは明治期の近代絵画へとつながっていく端緒となった技法である。酒井式主宰の酒井臣吾氏は、「ぼくの木 わたしの木(ニューバージョン)」で一発描きを紹介しているのだが、わざわざ習字用の毛筆を使って描くように示した点が今回は新たな提案になったかと思う。とはいえ、授業の体をなしていないというところが残念であった。次回の再挑戦に向けて捲土重来を期することにしよう。

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