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2005年11月22日 (火)

文学教材だからできる指導をする

※これは昔、国語教育研究会の同人誌に投稿した原稿である。

《実践提案9》                  大谷 和明(道央フリートーク) 
文学教材だからできる指導をする     

Ⅰ.味読につなげる音読指導

 私の教師振り出しの地は、日高管内えりも町である。
 日高管内は大西忠治氏の教員振り出しの地でもあるためか、全生研実践も華やかな土地である。その管内での国語の実践スタイルは、もっぱら三読法である。(とは言え、今現在もそれが続いているのかは定かではない)
 三読法とは、読み取りの段階を三段階に分け、最終段階の読みを「味読」として学習の仕上げとする指導過程を踏む。
 一応、味読(「みどく」ですよ。ちなみに私の愛機キャノンα40の辞書にもちゃんと載っていますから広く知られている言葉なのでしょうが)を石山脩平の『教育的解釈学』から引用する。
┌──────────────────────────────────────┐
│「味読(鑑賞)段階の任務」として「第一に挙ぐべきは朗読である。」「味読段階の│
│於ける『朗読』は、文の構造をば、最も精確に如実に而も端的に『読み』の中に躍動│
│させるものであって、これはまさに解釈の仕上げであり、総決算である。         │
└──────────────────────────────────────┘
 物語教材で指導の成果があがり、子供に深い理解をさせることができれば、おのずと朗読にも味わいが出てくる・・これすなわち「味読」・・はずである。朗読は「聴き手を意識した(聴かせるための)音読」であるから、読み手の理解・解釈の深まりとともに、より味わいのある朗読~すなわち味読が実現可能となろう。
 ただ、そのためにはやはり読みの技術が必要である。それは、アクセント・イントネーション・緩急(スピード)・強弱・強調・高低・抑揚・発音・発声・ポーズ(間)などの読み方のテクニックである。これは、説明文よりは文学教材を使うのがふさわしく、効果的であろうと思うのである。
 法則化運動に参加するようになって、私は分析批評にも多くのことを学ぶことが多くなったのだが、段階を踏んで読みが深まっていくという三読法にも引かれるものがある。向山氏に言わせると時間をかければ感動が深まるというのはおかしいという。確かにそうも思うが、時間をかければ理解が深まる点では、感動が深まるということもあながち間違いであるとは言い切れないと思っている。
 さて、味読は、私の意識では朗読の域に達しなければならないものと認識しているのだが、言語技術としての音読~朗読指導というのが、今いちはっきりしていない。野口主宰による『教室音読のすすめ』は、その点、技術指導を意識した実践提案として大変問題提起性の高い提案である。

Ⅱ.「花いっぱいになあれ」(松谷 みよ子)の実践

 場面3である。
┌──────────────────────────────────────┐
│  まっかな  ふうせんは、しずかに、ふわふわ  ふわふわ おりました。山の中の、│
│小さな  のはらに  おりました。おりた ところに、小さな  きつねの子が、ひるね│
│を  して  いました。子ぎつねの コンでした。  子ぎつねの  コンは、とっても  │
│いい  ゆめを  見て  いました。なんだかよく  おぼえていないけれど、おいしい  │
│ものを  たくさん  たべた  あとのような、うれしい  きもちで  目を  あけました。│
│  そうしたら、目の  まえに、ぽっかり、まっかな  花がさいて  いたのです。   │
│  まるくって、ふくらんで、ふわふわ  ゆれる  花でした。白い、ほそい、糸のよう│
│な  くきが  ついて  いて、なんだか  かみづつみのような  ねっこがついて  いま│
│した。                                                                     │
└──────────────────────────────────────┘
 分かち書きしていながら、なおかつ読点が多い。「山の中の」の後にはなくてもよさそうだが、「山の中の小さなのはらにおりました。」と、一気にたたみかけると、「小さなのはら」の強調が弱くなってしまう。後々に野原一面にひまわりの花が咲き誇っている情景と結びつける上でも、ここはやはり間を入れるのがふさわしいところであろう。それを意識させるためにも、この読点の意味は大きい。同様な箇所「そうしたら」「目のまえに」「ぽっかり」「まるくって」「ふくらんで」「白い」「ほそい」についても、ゆっくりと読ませるように指導することで、情景のイメージ化が図られやすくなる。
 倍角文字の部分は、読み違いをしやすい部分である。とかく、子どもは思いこみ読み(先取り読み)をしがちである。「ふわふわ」を「ふううわふううわ」「ふうわふわ」「ふわあふわあ」と読んだり、「おりました」を「おちました」、「とっても」を「とても」、「ぽっかり」を「ぽかり」、「まるくって」を「まるくて」と読んでしまいがちである。それはしかたないとしても、間違ったら、間違いを指摘して正しく指導する必要がある。それを、『これくらいなら、まあいいか』というあいまいな教師の指導姿勢があったり、誤読に気づかなかったりしていると、テクストそのものをおろそかにしてしまうような状況になる恐れがある。
 それでいて文章に即してなどとは、恥ずかしくて言えたものではないだろう。
 どう読めば中味が伝わるか?どう読むのが効果的か?ということを意識しつつ、音読指導をし、読解指導をすることが大切だということには異論はなかろう。

Ⅲ.文学教育の現状

 「新しい学力観」の登場とその影響化による文学教育の現状は、はなはだお寒い状況ではないだろうか。向山氏のいうところの「思い付き勝手、バラバラ発言」に象徴されるような授業がやはり多いようである。
 もちろん登場人物の気持ちを問うことが多いが、テクスト分析に基づく読み取りの授業は多くないのが現状のようである。したがって、国語の学力形成を意識して文学教材を取り扱う教師もあまり多くないようなのである。
 過日、私の学校で教育実践発表会があり、私は「大造じいさんとがん」を授業したのであるが、参観者の中からも「教えるべき内容があり、この時間のだれに着目した指導であるかが分かる授業だった。」という感想をもらった。中には、札教研の国語の授業へのアンチテーゼとしての授業か?などという意見まであり、どうも札幌市内での国語の公開授業では、子供達の連続発言が続いて教師の出番が少ないという授業が多いのであろう。残念ながら、私は生活科部会の所属だから、国語の公開授業を見る機会がないが、聞くところによると春・秋の定例の研究集会で修業をする人が少なくなり、かつ参加者が減ってきて、部会運営が厳しい状態なのだそうだ。なんだか、お寒い話ではある。国語教室の現況を反映しているような感じがして、残念に思う。

Ⅳ.言葉と言葉を結ぶまでの初期指導~経験の蓄積を図る~

 低学年、低年齢児には言葉(語句)だけのテキストを使って授業することは、至難の技である。本文の理解を補助するために挿絵は欠かせない補助資料となる。
 今年の道南(七飯町)で行われた「有田先生と勉強する会」で、野口先生がされた授業は、ちょうど昨年私がした授業に大変似ていた。
 題材は「土のふえ」である。
 「言葉 ~ 言葉」の前段階(特に語彙や経験の不足が目立つ発達段階)では、「言葉 ~ 挿絵 ~ 言葉」というように、視覚資料を使って読みをすすめることの効果は大変大きい。

 教材文の中の挿絵と文章(語句) 検討とをつなげる実践 
〔場面三〕土のふえ・・  

指示 1      59ページの挿絵を見て気がついたことを書きなさい。

1.にげている人がいる。
→ これに異論が出た。逃げているとしたら、北のへいたいが南の国へ逃げるということがおかしい。これは、しのびこんで、あいての国をほろぼそうとしている(多田)川村も同様の意見を述べていた。

2.あるいているへいたいがいる。
→ 歩兵の話をする。

3.カラスがいくさを見ている。
→ 守永は、これをへいたいが木に隠れて足を出しているのだと主張。      
 しかし、それはふに落ちないことなので、取り下げられた。
ここで、私の解釈を披露。『これは、ウグイスやセキセイインコでなくて、カラスだということが大事なんです。なぜでしょう?』守永が「ウグイスやインコなら平和な戦争だという感じがするのでおかしくなるから、カラスの方がいい。」象徴的なことをよく指摘できたと思う。私の解説は、『カラスという鳥は、死に関係したぶきみでふきつな鳥で、人が死にそうだったり、どこかでだいじな人が死んだりしたことを告げたりすると言われています。それに、死体の肉だって食べることがあるからね。』子どもたちは、「ええ~ 気持ちわる~い!」といっていた。

4.血を出しているへいたいがいる。
→ これもよく見ている。

5.どんどんころしている。
→ 兵隊がバタバタと倒れいる情景を見てとったことと思う。倒れている兵隊を「寝ている」といった子どもがいたが、これははげしいいくさの中で、のんきに寝ているということがおかしいということではずされた。そりゃそうだ。

6.てっぽうのかたちがちがう。
→ これは実によく絵をみていると感じた。銃身の先や持ち手の部分のちがいを良くみているのである。

発問 2 この挿絵は、場面2のどの段落を表したものでしょう?     

 段落⑦ということは、容易に指摘された。
 そこで、

発問 3段落⑦のどの言葉から、そのことがよくわかりますか?     

 ア・・・はげしいいくさ    8人
 イ・・・きずつき       7人
 ウ・・・しんでいきました。 14人
 エ・・・くりかえされました。 2人(多田の意見では、くりかえされたから、                   たくさんのへいたいがしんだんだからこれが一番大事だということだった。)「しんでいきました。」の中の特に、『しんで』という部分に学級が注目できたので、一番顕著な言葉(挿絵には、死んでいたり、倒れているへいたいが描かれている)だということで、納得したのである。

場面三
 まずは、状況把握からの発問。
┌──────────────────────────────────────┐
│                発問1  へいたいたちは、どこにいますか?                   │
└──────────────────────────────────────┘
 ざんごう→冬のざんごう→ながいざんごう→ふかいざんごう(ふかいゆきの中をふかいざんごうととらえたようである)
「ざんごう」はとらえられているが、肝心の『山』が出てこない。これは、北の国と南の国との境で対峙しているわけだから、山が出てきてほしいのだが、子どもたちの目はそこまでいかない。結局私がつけたして、まとめる。
┌──────────────────────────────────────┐
│                      冬の山のながいざんごうの中                           │
└──────────────────────────────────────┘
 この後、塹壕の説明を行う。
 北の国側と南の国側の塹壕の中のようすを確認させる。61ページは北の国のものであることを確認。
┌──────────────────────────────────────┐
│  板書            ひつじかい                    うしかい                   │
│  発問2  北の国の人はどちらですか?                                       │
└──────────────────────────────────────┘
 場面三の最初⑩は次の文である。
┌──────────────────────────────────────┐
│    ある日、たいくつした北の国の一人のへいたいが、ざんごうの ねんどをかため│
│て、土のふえを作りました。それは、へいたいになってまもない、わかいひつじかい│
│でした。                                                                   │
└──────────────────────────────────────┘
 ところが、この部分を読んでも、木村・藤田・伊藤の3人がひつじかいが北の国であることをとらえられなかった。この程度の文章の捕らえもれというのは、結構あるものとかんがえられる。普通なら、確認しないでササッと過ぎてしまいそうな部分である。
┌──────────────────────────────────────┐
│  発問  3    二人の同じところは、どこですか?全員起立して、場面三を読んで、│
│見つけたら、ノートに箇条書きしなさい。                                     │
└──────────────────────────────────────┘
 似たようなものを統合すると次のようになる。
〈H〉二人はまだへいたいになってまもない。
〈T〉二人ともふえをつくった。
〈U〉二人とも土のふえをふいている。
〈Y〉どちらのふえの音もいい。
〈M〉ふえをつくったへいたいがどっちもわかいへいたい。
補足として。
〈O〉どちらも男。
書き出しを「二人とも」とすると書きやすいようである。
★    ★    ★    ★    ★
 ざっとこのように、生活経験の少ない子供たちに、戦争(いくさ)のことを認識させていくことは、言葉のうわっつらを撫でるだけでは、到底無理なことである。 だから視覚教材としての挿し絵を活用したり、写真や本、時にはビデオなどの補助資料を活用しながら、内容理解の一助としているのである。
 言葉調べを学習計画の中に組み込むことは、日常的によく行なわれることだが、言葉を言葉で表わすだけで理解されたと思ってはいけないのである。
 子供達がものごとを知らないという実態を把握しつつ、必要な情報を提供していかなければ、理解を深める学習をすることは難しいだろう。
 子供達の理解程度がバラバラの状態から、同一教材を読み深めていけば、それぞれの思いが語られて、「思い付き勝ってバラバラ発言」がまかりとおってしまいかねない。そのような状態で文学教材の読解指導をとることは、困難なことである。 読解を進めるための道具としてのアイテム、例えば「視点」「対比」「アイロニー」「話者」などを持たせる分析批評や文芸研の授業は、技術を駆使して教材を分析する『ゼロベース』の思想がある。状況理解度を揃えるという発想も、『ゼロベース思考』につながる。
┌──────────────────────────────────────┐
│                       積極的に挿絵を活用していく                          │
└──────────────────────────────────────┘
 これも提案の一つである。

Ⅴ.文学とは「人間存在とは何か」という問題を追及する(言語)芸術である

 これは主宰の文学定義である。そして、芸術であるため「内容美」「形式美」の2つを兼ね備えていると言われる。
 芸術であるため、文学を見る(この場合は読む)目をいかに鍛錬していくかということが、教師修業として必要となってくるだろう。
 この点を実践の上で意識することで、さらに言語技術を意識した文学教材の指導の検討が進むものと考える。
 大変、示唆に富んでいる提起だと私は感じている。

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