« 私の本棚061028 | トップページ | 秋の南富良野路 »

2006年10月29日 (日)

私の本棚061029

教育バウチャー制度は、学校間淘汰現象を生む?!(副題を付けてみました)

『寺子屋の「なるほど!!」』(江戸教育事情研究会 ヤマハミュージックメディア刊 1,400円+税)
その1(しつこく続きそう)

教育制度改革論議が繰り広げられている。バウチャー制度導入もその一つ。(知らない人は、自分で調べてみるべし)
簡単にみて、人気の学校にお客さん(子供たちですね)が集まるシステムになるわけだが、これを支えていくためには校長の人事権が伴わないとダメである。よい学校=よい先生がたくさんいる学校というわけだが、現状では、人事は教育委員会が掌握していて、教職員集団は、そこそこ均等均質化されてきている。(とは言え、伝統的指導困難校(^_^;)というのがあることも事実)

もともとそこにいる人たちを相手に、学校経営をするわけだから、オーナー社長のようにはいかない。法律を持ち出して人を動かそうとしても情動を動かすことは難しい。つまるところ、邪魔であっても置かざるを得ないというのが学校というところである。具申権を行使してスポイルしようとするが、厄介者はどこにいっても厄介者なものだから、思い通りにいかない憤りを感じている校長は、さぞや多いことだろうと思う。(実際にいろいろ伺うことがあるけど)

職員集団にとっては厄介者でも地域・保護者にはそうでもないという人がいる。しかし、それは稀なことになってきている。校内のお荷物は、地域でも評価が低くなるわけだ。そうなりゃ、当然、バウチャーが導入されるたら客がよそに逃げてしまうことになる。校長だから、経営手腕を発揮すればよろしい!という論理になるわけだが、得てしてそのような方々には素直なところが期待されない。ましてや子供じゃないしね。

結果、校長に人事権(優秀な教師を採ってくることもさることながら、そうでない人を排除する権利)がないと、成り立たなくなってしまうのではないかということである。人事考課制度の導入は、その足がかりということだろう。

寺子屋というと、どこか慈善事業やボランティアという雰囲気があるが、実のところそうではない。
「束脩(そくしゅう)」という入学金(物のこともある)があったという。金品のない家庭は、労働提供(実労謝儀)して束脩にかえたというところもあったようだ。もちろん、その後の維持費用納入もあった。

だから、校区が割り振られていたわけではないから、収入が落ち込むとやめてしまう寺子屋もあったわけである。
人気のない学校は、バウチャー制度が導入されるとなくなってしまうのかもしれない。そうなれば、地域コミュニティとしての学校というものが存在しなくなってしまう。

学校というものは本来、地域の要望によって設置され、地域の援助も得ながら経営されてきた歴史的背景を考えるとき、このバウチャー制度の導入というものが果たして良いことなのか悪しきことなのか、いろいろ考えさせられる。

最後に以下を引用して終わる。============
明治に入り、小学校教育の成立・普及・充実に伴って(寺子屋は)、次第に初等教育機関としての機能を失い、明治10年代になってほとんど消滅してしまった。
しかし、その定着の中で寺子屋によって培われた”地域の学びの場”と、”自由な加減”が失われていったのである。現在の学校教育が抱える閉塞感を打ち破る鍵とは、この2つの失われたものではないかと思っている。
============
以上、3編連続のミニシリーズは終了。(^_^;)読んでいただいてありがとうございました。<(_ _)>


|

« 私の本棚061028 | トップページ | 秋の南富良野路 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事