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2007年10月

2007年10月29日 (月)

学校PCからSNSを開けられない

モバイル用のモデムカードを解約したので、学校PCを使ってメールチェックやSNSチェックをしようと思ったら、SNSが開けられない。
なんでか?と思ったら、カテゴリーが「出会い系」となっているのですね。
札幌の学校PCは全てメインサーバー経由ですから、おかしげなサイトへはすべてブロックされています。それでSNSは会員制を引いているわけだから、「出会い系」のカテゴリーに分類されるようなのですね。
笑ってしまいました。

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2007年10月27日 (土)

学テ一考

全国学力調査の結果が配送されてくる前から、あれこれと報道されていたが、最も驚いたのが世帯状況と結果との相関についてのことである。
世帯所得と学力との相関関係については、かねてからいろいろ取りざたされてきたことだが、こうも露骨にされると人権問題にも及びかねない異常事態である。
学校と塾(家庭教師を含む「学校外教育機関」)が併存するダブル・スタンダートが当たり前の世の中になって随分と経つ。最近では、学校側が塾へ講師要請したり、教材提供を受けたりと、私に言わせれば完全なる「敗北宣言」をしているようなものである。
公立校でも教育の質を低下させないように、あれこれと努力している誠実な教師が多くいる中で、免許外?教師に免許教師が頼るというのはねじれ現象以外なにものもない。
まあ、それくらい教員免許というものの価値が下がっているということなのだろう。
こういうことが免許更新制度への追い風となってくるわけだ。

話を戻す。

学力テスト対象が小6年、中3年(内容は、当然小5年まで・中2年まで)となっているわけだから、受験学齢というわけだ。首都圏のように私立中学、進学(高)校への志願者のかなりの数が学校教育だけでは不足感があり、補習のための塾通いをするようになる。
金があれば行けるけど、金がなければ行けないという単純な図式で見れば、世帯所得に応じて、学力形成の土壌の厚さ・肥沃さというものが違ってきて当然である。

ちょっと横にそれるが、今回のB型テストと呼ばれるテストはPISA型を想定してのものということになっているのだが、そもそもPISAを意識した学力形成を現場に奨励していきているわけでもないし、そういう政策が取られてきたという話もない。いつのまにやら文科省の学習指導要領の文言とは別物に、PISAにも当然対応できる学力形成をしているべきだという「後付麻雀」のような対応を迫られているような形である。
フェアな感じがしないのは私だけなのだろうか。

さらに、世帯状況との相関問題は地域コミュニティの分断を一層加速させる要因にもなりかねない。なぜなら、低所得世帯というものは、広く地域に均等分散しているものではなく、低家賃の居住区に密度が高くなるのが当然だからである。
勢い、学校間格差ということでこれまでうやむやにされてきたことが、決定的に顕在化されてくることになる。

さらにさらに、これに人事考課・人事評価というフィルターを加えることにより、学力水準の低いところへの異動を拒む動きが出てくることだろう。教員の評価はなんといっても授業であり、結果として出てくる学力数値をよりどころにするわけだからだ。
一生懸命にやってもなかなか結果を出せない学校と、楽して結果がついてくる学校とどちらがよいか考えるまでもないことだ。

来年度以降も4月に定期的に学力調査が行われることになっているが、国や地域としての学力調査を毎年毎年行う根拠はなんだというのだろうか。

これに対する世論の盛り上がりに期待したいところだが、どうにも期待薄な感じがしている。

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2007年10月21日 (日)

五色百人一首大会に行く

今年で第3回となる富良野地区「五色百人一首大会」にスタッフ参加してきた。
記録係が中心だったので、余裕をもって見ることができた。
Dscn8279 Dscn8269 主催代表の荒谷さん(旭川市立永山小学校)が協賛店をたくさん見つけてきてくれたので、結構な商品・参加賞なんかが用意されていて、子どもたちが喜んでいた。
全体的にこぶりな規模であったが、アットホームなムードがあり、とてもよい雰囲気であった。
事後反省では、次のことを指摘してきた。
(1)次札を読み始める前は、前札の下の句から読まないとならないのだが、いきなり上の句を読んでしまうことがあった。
(2)「待った」の間中は、審判は挙手を続けるようにした方がよい。
(3)札並べの間は、審判は起立し、並べ終わって準備が整った段階で着座すれば、競技開始OKの合図となる。
(4)「待った!」の声かけは遠慮せずに、ハッキリ言わないと進行に支障を来すことがある。
(5)読み手は、全体の状況を確認しつつ、札読みをするくらいの余裕がないと競技進行に問題発生時に通り過ぎてしまうことがあるので、注意した方がいい。
(6)閉会式後のくじ引き会場を別の場所ですれば、会場整理を同時進行で行うことができて、効率的になったことだろう。

ざっとこんなものだ。
試合開始前、早々に参加者がそろってしまったので、前座で大沼さん(岩見沢小学校)がお得意のFLASHサイト(もちろん自作)を使って、時間調整をしていた。(さすが)
Dscn8191 こうやって、いつでも即座に対処できるようにしてあるのがいい。

夜はスタッフの懇親会があり、前座で私の特別講演を行った。
これもまた、開始時刻の連絡がうまくできていなく、1時間待ちとなるインターバルで行うこととなり、ちょうどよかった感じである。(^_^;)
Dscn8309 夏のFreeTalk恒例「バーベキューパーティー」の前に行ったものなのだが、ちょっとはお役にたてたかなと思う。
富良野の夜は大いに盛り上がり、楽しい呑み会であった。
仲間と過ごすひとときはいいものですね。

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2007年10月18日 (木)

私の考える「基礎・基本」

これまた以前、『現代教育科学』に掲載されたものである。(内容からみて、5年以上昔だなあ。(^_^;)
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1 現場人としての哲学をもつこと

 小稿の機会を与えていただき、あらためて昭和51年来触れられてきた「基礎・基本」について、手持ちの文献を当たってみた。
 しかしながら、依然として曖昧模糊としている「基礎・基本」を簡明に定義し、説明しているものはなかった。
 そこで得た結論は、
┌──────────────────────────────────────┐
│  現場人として自分流に「基礎・基本」を規定し、実践を通して定義していくことが必要    │
│                                                                                              │
└──────────────────────────────────────┘
というありきたりのことであった。
 さまざまな識者の意見を見たのであるが、そもそもが時々の中教審・教課審、あるいは臨教審、そして学習指導要領で統一された定義があるわけでもなく、他律的にその中味を示してもらおうという姿勢自体が、現場人としての主体性を放棄しているともいえることである。そんなことを再認識したのである。結局は自分でちゃんと考えるということが最も重要な学究姿勢であると感じたところである。

2 12年ぶりの邂逅

 この夏、12年ぶりに教え子たちと顔を合わせる機会があった。
 23才を迎える青年たちである。
 「パチンコ店で働いています。」と元気に答えるO。
「福祉関係の資格を取りたいと思っています。」と旺盛な向上心を持つK。
「老人ホームの仕事をがんばっています。」と明るく語るI。
 どの子も充実した青春を謳歌している様子であった。
 12年前の面影が残るその表情の端々にどの子も「生きる力」を覗かせているのを感じることができた。
 私の隣に座ったやんちゃ坊主だったOの口から出た質問は意外にも、
「先生、今でもギターを弾いていますか?」
というものだった。
 思えば、3・4年生の2年間を担任する前から、子ども達は前担任とギターで楽しく歌っていたものである。
 いいことは受け継ごうと思っていた私は、授業の中や朝帰りの会、お楽しみ会などいろいろなところでギターを共に学級づくりをしていたように思うのである。
 小学校の4年間をギターといっしょに過ごしてきた子ども達にとって、それは何にもましてなつかしいことなのであったのだろう。
 当時は複式学級を担任していたので渡りずらしのための学習ワークやプリント作成、2倍の教材研究などのことの方が、印象深いことではあったが、少人数ながらも楽しく活気のあった2年間だと記憶している。自分の子どものころを思い出してみると、やっぱりつらいこと困難だったことよりも楽しかったことや嬉しかったことの方が記憶に多いものである。
 結局のところ、年間1000時間前後の授業を通して、生き残っていく記憶は、私や子ども達には《快》の部分が圧倒的であったようだ。
 そんな《快》的な学校生活が、いまこのときを元気に生きている子供たちの生きる力となって根づいているのだと感じたのであった。

3 「基礎・基本」私のとらえ

 人格形成の面から教科・領域指導を見た場合、読み・書き・算は生活していく上で必要な技能であることには間違いないが、生きていく上では最重要な能力ではないと、私は考えている。 九九の暗唱、水溶液の性質調べ、説明文の構造学習がどんな人格形成を促すのかなどのナンセンスな論文はまずないだろう。
 論点となることは、
┌──────────────────────────────────────┐
│各教科・領域の学習体験がどのように人格形成に影響を与えていくのか                  │
└──────────────────────────────────────┘
ということだろう。
 いろいろな教科・領域での指導・学習を通して、知識を取り除いて残る部分こそが、その人を支える「基礎・基本」となっていくことではないかと考えるのである。
 これは、以前からあがっている知育偏重主義への批判と合い通じることと思う。
 12年ぶりに再会した子ども達の姿をみて、現場人としてあらためて自分なりに「基礎・基本」を再考した。
┌──────────────────────────────────────┐
│「基本」とは、自分らしさを持ち続ける力。                                                  │
│「基礎」とは、生きていく上での底力・したたかさ。                                        │
└──────────────────────────────────────┘
 もう少し、言葉を足してみる。
「自分らしさ」の他に、「自分を失わないこと」「いつでも自分に戻れる」「自己確立」「自信」などの文言を想起することができる。
 さらに「基礎」の部分。
 「生きていく上での底力・したたかさ」に言葉を足す。
 「自己信頼」「可能性の追求」「挑戦心」「意欲」「革新性」
 以上の文言を〈鍛え、高めていく〉ような定着方法を、学習指導場面で追究していくことが、『現場人として基礎・基本を定着させていく』ことになるものと私は考える。
 こんなことを思いながら、立派に成人した子ども達を目の前にし、自分を再評価してみた。少なくとも子ども達に暗い影を残すことなく、再会の場に呼ばれた身の上を、つくづくありがたく思ったところである。
 子ども達は、私の指導の後にもいろいろな人々との出会いがあり、それぞれ学びの場があったはずだ。そして、そこを生きていく中で、今の自分を確立してきたのである。
 私もその一人としてかかわりをもていくばくかのプラスになれたことを、大変うれしく思ったのである。

4 マクマスターに学ぶ

 生きるということは、ポジティブなことである。
 主体的・能動的な学習者を育てる上では、
┌──────────────────────────────────────┐
│いかにして学習の必然性・必要性を持たせていくか?                                      │
└──────────────────────────────────────┘
という点に指導者として意識が集中しなければならない。
 動機付(モティベーション)や課題意識の喚起が重要視されるゆえんである。
 短い教師生活を通して、私が意識的に持ち続けてきた「基礎・基本」について、目から鱗が落ちる思いのする話があった。
 「マクマスター方式」の指導だ。
 『読むクスリ 26』(文藝春秋)によると、
┌──────────────────────────────────────┐
│  カナダのマクマスター大学医学部では、教官は学生に知識を伝授できないという。     │
│医学生が自ら学ぶように「指導」するだけ。                                                 │
└──────────────────────────────────────┘
なのだそうだ。
 学長の思想は、『必要なのは、自分で発見する能力であり、自分で問題解決をする能力』だというものである。 ここ数年、生活科を研究し、総合的な学習が設置されることになった現況をみると、このマクマスター式は最も私の理想とする学習スタイルかと感じているところである。
 〈知識が必要なら百科事典を背負って歩けばいい〉ということが、技術革新で〈百科事典はポケットに入る〉時代へと変わってきた。
┌──────────────────────────────────────┐
│知識でなく、知恵を獲得する時代                                                            │
└──────────────────────────────────────┘
になった。
 生きていく力である「基本」となる『自信』の確立には、成功体験の蓄積が必要である。
 すでに述べた「基礎・基本」に関連する文言の妨げやそれらをつぶすようなことをしないということを意識するだけでも、子ども達の基礎・基本形成に大きな働きをしていくことになると私は考えている。これはネガティブな考え方である。
 もっとポジティブに考える。
 『自信』の確立は、プラスの自己評価の積み重ねが必要である。
 精選された内容で繰り返し学習するなかで子供たち自身が「理解する」こと、教えられたことではなくて、学び取ったことを子供自身が自覚できるような指導方法をこそ、現場人として追究していくことが必要なのである。
 「飽きるまで体験させる理科授業」「変化のある繰り返しで臨む算数の授業」「自ら内容分析を行う分析批評の授業」「自らの生き方を問い直すライフスキルの授業」「自らの働きかけで自分の有用感を感得するボランティア授業」等々、法則化運動が進めてきた授業のどれもが『子供自らが自分を高く評価していける授業のモデル』となっていると私は思うのである。
 自分に自信がもてる人間は、どんどんアクティブに行動できる。
 創造的な活動を創出することができる。
 そして、
┌──────────────────────────────────────┐
│生きることを楽しむことができる                                                             │
└──────────────────────────────────────┘
ようになる。
┌──────────────────────────────────────┐
│  精練された学習活動の中から、基礎・基本が形成される                                 │
└──────────────────────────────────────┘
 「知的」という言葉に象徴される精練された学習をどう保障していくか。 これがとりもなおさず、「基礎・基本の定着を図る」指導方法の研究となっていくものと考える。
 いずれやってくる教科改編の流れにむけて、現場人としてこのことを危機的に考えていける者が、教室崩壊を回避でき、楽しい学級経営を展開できるのだと思うのである。

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2007年10月17日 (水)

子どもが期待する学級の姿

だいぶ前に『現代教育科学』(明治図書)に掲載された雑誌論文である。
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1 学級担任を子どもが選びたいか

 「学級担任を子どもが選べるようにすべきである。」という論題でディベートが組めるか、子ども達に提示してみた。全部で12チーム中ある。
積極的肯定派・・・1チーム 
消極的肯定派・・・1チーム 
積極的反対派・・・10チーム
 事前にこの論題では、肯定・反対のどちらを取るか聞いた結果である。
 肯定指示の理由は、

・自分で選べると楽しい
・いやな先生になることを避けられる
・仲良しがあつまれるという意見に集約できた。

 これに対する反対指示の子ども達の意見はこうである。

・楽しいだけで甘えてしまう
・同じ先生ばかり何年もあたるといろいろな先生から教わることができなくなる
・ほかにいい先生がいてもわからない
・おなじ先生のところに人気が集中してたいへんになる(学級人数の問題である。過密を意識している)
・やさしいだけなら、なんでも「いいよ、いいよ」と寛容に許してもらってきびしくしつけてもらえない。
・きびしく教えてもらわないと頭が悪くなる。

 子ども達の意識は、
┌────────────────────────────────┐
│優しいだけの先生なら、自分たちのためにならない                                    │
└────────────────────────────────┘
ということのようである。

2 子ども達からの告発

 子ども達とも打ち解けてくると、好きにつけ悪しきにつけ、前担任のことが話題となって提供されてくる。
 子ども達にとってよい担任だったら全然問題がないのだが、逆であると全くその対応に苦慮してしまう。
 こんなことだ。

・男にばかりきびしく接する。(その逆もあるだろう)
・ひいきする。
・大した理由もなくすぐたたく。
・授業が分からない。
・自分たちの要求をまともに受け入れ てくれない。
・ばかにする。
・いつまでも愚痴をこぼす。
・休み時間もつぶして授業を続ける。

 こういった事を延々と聞かされると苦痛意外の何者もない。ましてや、現時点で同僚として職場を共にしていると真っ向から弁論していくこともやっかいである。子ども達と誠実につき合っていこうと思えば、取り繕って言いくるめるようなことはできない。

3 現代の子ども達のバックグラウンド

 そんな子ども達の特徴を自分の子ども時代と比較してみると次の点で大きく異なっている。
┌────────────────────────────────┐
│学校や教師に対する評価や価値観                                                        │
└────────────────────────────────┘
 子ども自身が先生というものを実に客観的にみるようになっていると私は感じている。
 私が子どもの頃といえば、担任の先生以外は、それほど目に入らなかったし、教師比較ということもなかった。(少なくとも私や私を取り巻く友人関係の中で聞いた事も話したこともなかったのだが、それは未熟だったからなのだろうか。翻っていえば、現代の子ども達は早熟だということになるのだろうか)
 子どもたちばかりでなく、親達についても同じく、学校や担任のことを日常の話題としているのを耳にしたことがない。(これをして、遅れていたといっていいものだろうか)
┌────────────────────────────────┐
│雑踏的集団が多く、固有・特有の集団があまり見当たらない                       │
└────────────────────────────────┘
 子ども集団にギャングエイジがあるというのは、どうも変質してきているような気がする。教育心理からみると徒党集団は中学年年齢層に見られることになっているが、高学年でもその傾向を強く感じられるようになってきている。しかも、結束力が固いということを余り感じられず、その場的な集団形成であることが多いようである。
 だからだろうか、いじめ・悪口・陰口は、形成されている集団内で発生していることが多いようだ。
 子ども達は対立や衝突を好まない(というか、交渉の力が不足しているのではないかと思う)ので、不満のはけ口を別なところにもってきていることが多いようだ。靴隠し・筆入れ隠しなどの持ち物隠しをして、相手を困らせたり、物品を渡して気持ちを引いておくという行動がある。
 そして、それらの行動を誰かが強烈にリードをするということもなく、だれがいうともなく、なんとなく流されるムードで行われている様子が伺われる。

4 子どもが求める教師とは

 これを一言で言えば、
┌────────────────────────────────┐
│安定した生活を保障してくれる指導力をもつ教師                                       │
└────────────────────────────────┘
である。
 安定した生活とは、
┌────────────────────────────────┐
│・秩序がある                                                                                       │
│・ルールが徹底されている                                                                     │
│・差別関係がない                                                                                │
└────────────────────────────────┘
ということである。
 法則化運動の中で、学級崩壊を防ぐ教師の姿勢としてよく「赤鉛筆」が登場する。毅然とした教師の指導姿勢、筋の通った一貫性が、子ども達に与える影響力は絶大なものがある。
 しかし、それは圧政ではない。
 指導者は担任教師なのだという秩序の提示である。
 「赤鉛筆」を使うのだとするルールの徹底指示である。
 そして、例外を認めない差別を排する指導姿勢なのである。
 子どもの個性を尊重する・・という論調の教師がいるが、子どもの個性は鍛え上げる中から、みがかれていき、可能性を引き出していく教育活動の延長上に現出するのだという信念を持たないと指導がぐらつき、やがて屋台骨が折れて、教師もつぶれ、子どもも荒れる結果を招いてしまうということを自覚するべきである。

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2007年10月13日 (土)

平成20年度札幌市教頭筆記試験

今年の設問は、以下のとおり。
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 今日、学校は、子どもや保護者はもとより、広く社会からの期待に応える教育を推進することが求められていることから、直接、教育に携わる教師に対する揺るぎない信頼の確立を図ることが必要です。
 あなたは、このことについてどのように考え、学校経営をする上で教頭としてどのように取り組むか具体的に述べなさい。(1200字以内)
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 少女買春教頭の逮捕と懲戒免職が発せられたことに、軌を一にしての問題ともいえるが、いつも以上に間口の広い設問だなあというのが、概観しての感想である。
 これだとどうにでも書ける。
 ちなみに、私は以下の2点で論述した。
(1) 授業を核とした教育活動の顕在化
 要するに、やっていることのねらいが明確に伝わり、学習成果として「見える学力」形成を体現していくということ。
(2)学校評価の充実
 人事評価とをからめて、学校評価に保護者や地域の外部評価を取り込むことで、学校教育の共有化を図ろうというもの。
 
 以上の2点を通して、実践への自信と教職員としての誇りを持たせることで、信頼回復を図っていくように努力したいというもの。
(ああ、おおざっぱでだれでもスローガン的に述べられる程度のことだな。まあ、受かろうと思って書いているわけじゃないんだけどね。(^_^;)

 それにしても、もっと具体的につっこんだ設問の方が、力量判定には役立つと思うのだけどね。
 免職教頭の一件で、昇任試験制度の見直しをする方針を札幌市教委が打ち出したけど、これまでの延長上のような改革なら前進を望むことは難しいだろうと思う。
 ましてや、社会的な信頼の回復を図るためには、仰天するくらいの大改革と登用人事が必要になってくる。
 このことに関しても、いくつか提言内容を持っているのだが、おそらく面接に時には、このことが訊かれるだろうから、その時に話してみることにしよう。かなり、ショッキングで従来の教育委員会では考えつかないような内容だから、面接官の反応を逆に観察してみようかと思っている。(^_^;)

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2007年10月12日 (金)

すてきだな

大前研一さんに学ぶことが多いので、必然的にAGORIA(SNS)にも参加している。
今日は、私の誕生日だったのだが、トップ画面がうれしい表示となっていた。
こういう配慮は、ソフトの自動設定とはいえ、うれしいものである。
もう一つ、niftyからも届いた。 
Ci071012205803 http://www.nifty.com/happy_birthday/
これもまた、システム上の自動処理といってしまえばそれまでなのだが、届くとうれしいものだ。
このほかに、女房と長女からの携帯メール、次女からは夕食時にお祝いの言葉。
(「おめでとう」だけだった・・)
結局、長男・次男からは音沙汰なし。
男の子どもというのは、こんなもんだな。(^_^;)
ところで、今日で49歳。いよいよ最後の40代ということになってしまった。
いつ病気で他界するかもわからない。
Dscn7902

今日は、黒川紀章さんが亡くなったとのこと。死因を報道しないのが、微妙だな。
何しろ、つい先だってまで、都知事選や参院選に立候補して、病気の片鱗すら
見せていなかったからね。多少なりとも、気になるところだな。

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2007年10月 9日 (火)

教材・授業開発研究所 全国大会

Arita  いつもははがきでいただく有田先生の手紙が、今日は封書であった。
左が同封されていたもの。
 教材・授業開発研究所 第1回全国大会の呼びかけ文であった。
 開催日は、12月23日(日) 9:40~17:10
 会場は、岡山大学
翌日 24日(月)は振り替え休日である。
ううむ。是非とも行きたい!!ところだが、先立つものが・・(^_^;)。
女房が「子どもたちばかりにお金かけていないで、たまには行ったら?」と促してくれるものの・・・。
ちなみに、次のように綴られている。
================================
 そろそろ紅葉の美しい季節となりました。当研究所では、古川さんや中嶋さんのグループのお骨折りで、第一回の全国大会を同封のような内容で行うことになりました。
 つきましては、先生のグループや仲間、知人などに参加して下さるようおすすめ下さい。このお願いのために手紙を書きました。
 明治図書の雑誌にも広告が出ますが、わたしからもお願いしたいと思い書きました。どうぞ、一人でも沢山おいで下さり、会を盛り上げて下さるとありがたいです。
 この日に、研究所でまとめた新刊も販売されますし、新しい学習指導要領の情報などもお話できると思います。
 どうぞよろしくお願いします。右、お願いまで。
 平成十九年十月七日 代表 有田 和正
各位
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 ううむ。我がサークルの共著がここでお披露目となるわけだ。
 かなりの力作である。(自分で言うのもなんだけど(^_^;)
 21世紀の社会科(生活科・総合はもちろん、他の教科に関しても)で必要な学力はどんなもので、どうすることで身につけさせることができるかということを具体的に論述しているものである。
 ううむ。無理してでも参加し、本の販売をしてきたいものと考えているのだが・・・。
Dscn1937

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2007年10月 8日 (月)

【私の本棚071008】しゃしゃれる教室

『だから、僕は学校へ行く!』(乙武洋匡著;講談社 1,143円+税) 978-4-06-213633-4
以前に読売新聞社主催の教育ルネサンス イベントでTOSSと授業づくりネットワークの上條さんがメイン講師として同じ舞台で授業実践を公開し合ったことがある。
終盤のQ&Aの時に『五体不満足』著者の乙武さんが質問していた。その会場には教師しか入れないというわけではなかったので、一般参加者に混じって来場されていたのかと思っていた。実際には、その時には教師を目指して勉強していた時期なのであった。
現在は、新宿区の「子ども生き方パートナー」を経て、杉並区立杉並第四小学校の教諭となっている。
その彼が、全国の学校現場を歩いていた経験を独自の眼で分析しているのが本書である。
中でも、私が気になった部分は「しゃしゃる」の一節。”しゃしゃる”とは、簡単に言えば、級友学友の中にあって目立つ行為をすることを指す。
===== (引用開始) 
親からは他人の目を意識させられ、意見を言えばブーイングされる。さらには授業中に手を挙げれば、級友から「しゃしゃってる」と罵られる。そんな環境で育てば、人前で意見を言うことに臆病になってしまうのも無理はない。だが、その結果がいまの大人社会に色濃く反映されていることは自覚しておく必要があるだろう。
 たとえば、職場での会議。進行役がいくら盛り上げようとしても、誰もが顔を伏せて黙りこくり、まるで議事が進行しなかったなどという場面を経験したことはないだろうか。 
☆(大谷:私は、研究会や研修会等の中で司会をする場合は、このような場面を回避するために、下ごしらえをあらかじめしておくことがよくある。極端な場合、"桜"を用意することさえある。(^_^;) ☆ 
一昨年春、ドイツ人の研修生と知り合いになった。彼は、最初の二ヶ月間を日本の企業で、さらにそのあと、外資系企業で働く機会を得たという。
---- それぞれ働いてみて、どういう点がいちばん違っていた?
僕の質問に対する彼の答えは、じつに興味深いものだった。
「やっぱり会議の活発さ。外資系企業では上下の区別なく、それぞれ自由な雰囲気で意見を言い合っていたけれど、最初に行った会社では、周囲の顔色をうかがいながら・・・というところがあったよね。」
 他人の前で意見が言えない。それは学校だけが抱える問題ではなく、大人社会でも同じような状況が起こっている。社会人になっても、上司や同僚の前で自分の意見を発表することは、できれば避けたいと考えているのだ。
 これは、国家としてのダイナミズムにもかかわる問題--そう考えるのは、あまりに大げさだろうか。
 (引用終了) =========

この引用部分に先立って、ある中学校での生徒達とのインタビュー授業が紹介されているのだが、これが重い。(^_^;) 高学年~中学生となっていくにしたがって、あまり発言しなくなっていく子どもたちの様子を容易に想像できるからである。
それに比べると、我が校の子どもたちは実に素直で、むしろ「しゃしゃりでるのが大好き」という子が多い。
先だってのALTの授業にしたって、全然物怖じせず、ALTと並んで踊り狂う(^_^;)のを楽しんでいるくらいだ。
写真は、その時に写したもの。スマートボードを使ってALTと授業をする前に、私が事前授業として使い方を伝授する授業をした。おなじみの「髪形かた考える明治維新」の授業である。
Dscn7829 Dscn7849

ものおじせずに素直に自己表現ができる教室環境を作っている六年団の力量というものが背景にある。(これ、六年生です。(^_^;)
高学年となって、あまりしゃべらなくなる現象を嘆いているよりは、どうすればそれを打破して、楽しい授業ムードを創り出せるのかを考えることが肝心なのである。原因は自分にあると考えることで、学級づくりのアプローチが変わってくるのではないだろうか。

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